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Sunday, February 20, 2005

Summer 篇小說

四章 :

社殿

山路

靈山

空夢


★[ 社 殿 ]/柳也★

空からなにかが降ってきた。

そう思った時には、もう避けようがなかった。

…どすっ。

なにか重いものの下敷きになった。

俺は地面に倒れ、そのまま空を仰ぐ羽目になった。

【柳也】「…痛てててっ」

【声】「…おぬし、なぜそんなところにおるのだ?」

重いものが言った。

【声】「まさか…見ておったのか?」

【柳也】「見えるのは空だけだ」

【柳也】「口を開く暇があったら、早くどいてくれ」

空から降ってきたそれは、あわてて立ち上がった。

打ちつけた腰をさすりながら、俺もゆっくりと身体を起こした…

少女がいた。

きゃしゃな身体。

上等そうな絹の巫女装束。

垂らし髪に響無鈴(こなれ)をからませている。

そして。

なぜか少女は、袴(はかま)の帯を結びなおしていた。

【少女】「………」

【柳也】「………」

目が合った。

【少女】「なにを見ておる?」

【柳也】「空で着替えでもしてたのか?」

【少女】「………」

気まずい沈黙がおとずれた。

【少女】「…おぬし、見なれぬ顔だな」

俺の腰、鉄鞘の長太刀(ながだち)に視線をよこす。

【柳也】「ああ。今朝、着任したばかりだからな」

【少女】「名は?」

【柳也】「正八位衛門大志、柳也(りゅうや)」

【少女】「姓はないのか?」

【柳也】「急だったからな。名しかつけてない」

【少女】「どこから来たのだ?」

【柳也】「ここの前は、若狭(わかさ)の辺りにいた」

【柳也】「家柄を訊いているのなら、俺にもわからん」

【少女】「そうか。覚えておこう」

つぶやくように言って、また帯絞めに没頭する。

その指がどうにもぎこちない。

どうもかなり不器用な少女らしい。

【柳也】「人の上に降ってきておいて、詫びのひとつもないのか」

【少女】「なぜ余(よ)が詫びねばならぬのだ?」

【柳也】「随分と世間知らずだな」

【柳也】「だいたい、名をたずねておいて自分は名乗らないつもりか?」

帯にかけた手が、はたと止まった。

【少女】「知らぬのか、余の名を」

【柳也】「知らん。今会ったばかりだろう」

【少女】「そうか。存外、知られておらぬものよの…」

面白そうにつぶやく。

【少女】「神奈だ」

少女はそう名乗った。

【柳也】「神奈?」

【柳也】「それは奇遇だな」

【柳也】「俺が守護の命を受けた翼人の御名が、まさにその神奈という」

【神奈】「…妙な男よの、ぬしは」

【神奈】「翼人をどのような者だと考えておる?」

【柳也】「そうだな。なんたって神の使いだ」

【柳也】「唐天竺では鳳翼(ほうよく)と呼びならわし、異名を風司(ふうじ)、古き名では空真理(くまり)ともいう」

【柳也】「肌はびろうど瞳はめのう涙は金剛石」

【柳也】「やんごとなきその姿はまさしくあまつびと」

【神奈】「…よくもまあ、美辞麗句を並べ立てたものよの」

呆れたようにつぶやく。

【神奈】「ところでぬしは、なにをしておったのだ」

【柳也】「別に。ただぶらぶらと歩いていただけだ」

【柳也】「なにしろ、これだけの広さがあるからな」

【柳也】「護りをかためるなら、どこになにがあるか知っておきたい」

【神奈】「それは殊勝な心がけよの」

誠意なく言いすてて、またも帯に手を戻そうとする。

【柳也】「神奈」

【神奈】「…初対面にしては、ぶしつけだの」

【柳也】「おまえがそう呼べと言ったからだ」

【神奈】「それで、何用か」

文句を言いたげだったが、先をうながしてきた。

【柳也】「神奈は、この中はくわしいのか?」

【神奈】「無論であろ」

【神奈】「この世のどこに、自分の住まう屋敷がわからぬ者がいるか」

【柳也】「では、案内してくれ」

【神奈】「なにゆえ、余が案内せねばならぬ」

【柳也】「くわしいんだろう?」

神奈の眉がつりあがった。

【神奈】「いま一度訊ねるぞ」

【神奈】「なにゆえ、余が、おぬしを、案内せねば、ならぬ?」

【柳也】「理由はふたつある」

【柳也】「社殿の事情にくわしそうだ、というのがひとつ」

【神奈】「もうひとつは?」

【柳也】「少々骨張っていようが、そこそこ見られた顔(かんばせ)の女に案内してもらった方が気持ちがいい」

俺を覗きこむ顔に、複雑な色が浮かぶ。

ほめられたのか、けなされたのか、判断がつきかねているらしい。

【神奈】「…案内してやる。ついてくるがよい」

【柳也】「そりゃ、どうも」

【柳也】「あ、そこそこってのは、『さほど悪くもなし』という意味だ」

【柳也】「妙な望みは持つなよ」

【神奈】「やかましいっ」

中庭を望む廊下を、ならんで歩く。

貴人の住まいにふさわしい、端正に手入れされた庭だ。

神奈は笑いもせず、さらりと袖口をあげた。

【神奈】「装束だけは、このようにもっともらしいがな」

【神奈】「実際は牢獄とかわらぬ」

【神奈】「庭を歩くことさえ、好き勝手にはできぬ」

【神奈】「なにゆえに、余は閉じ込められねばならぬのだ」

【神奈】「余はひとりでも生きてゆけるぞ…」

俺は誤解を思い知らされていた。

見たこともない表着(うわぎ)の意匠は、この少女の背に羽があるからだと気づいた。

どうやら俺は、自分が護るべき翼人をからかっていたらしい。

今更どうにもなるまい。

なりゆきに任せ、話を続けることにした。

【柳也】「しかし、羽はどこにいったんだ? 切り落としたのか」

【神奈】「めったなことを言うな」

【神奈】「しまい隠しておる。普段は人のなりと同じだ」

【柳也】「なんだ、そうなのか」

【柳也】「どんなものが拝めるかと期待していたのにな」

【神奈】「悪かったな。期待をことごとく裏切るような女で」

まさしく彼女のなりは、翼人からはほど遠い。

それだけではない。

…さわさわさわっ。

神奈の尻を撫でてみる。

【神奈】「…なにをするっ!」

あわてて身をひるがえし、真っ赤な顔で俺をにらみつける。

その辺の娘となにひとつ変わらない。

【柳也】「いや、いい形をしてたから」

【神奈】「おまえはいい形をしておったら、いちいち触ってたしかめるのか」

【柳也】「いい形をしている尻はそうそうない」

【柳也】「だから、めったなことでは触らない」

【神奈】「………」

【神奈】「ぬしほど無礼な男は、見たこともないぞ」

【柳也】「無礼はお互いさまだろ」

【神奈】「なにを申すかっ」

【柳也】「さっき俺を下敷きにしただろ、その尻で」

【神奈】「………」

なにか言おうとしたあと、呆れ顔で俺を見た。

【神奈】「おぬしといると、羽を忘れそうになる」

【柳也】「どういう意味だ、それは」

【神奈】「言葉のとおりだ」

そこは屋敷の奥にあるこぢんまりとした座敷だった。

【神奈】「余はここで暮らしておる」

【柳也】「……」

【神奈】「どうした? はよう入るがよい」

いくら俺でも、貴人の御座にずけずけと踏みこむのは気が引ける。

【声】「神奈さま、失礼いたします」

突然、女の声がひびいた。

俺の右手は太刀の柄を探していた。

まったく気配がしなかったからだ。

振りかえると、女官らしき者が荷物をたずさえて立っていた。

俺は刀から手をはなし、神奈にそっと耳打ちした。

【柳也】「あれは何者だ?」

【神奈】「ここで唯一、余にまことからつかえる者だ」

【裏葉】「裏葉(うらは)と申します。そのようにお呼びください」

そう言うと、女は手近な床に荷をそっと置いた。

やわらかそうな生地の夏衣で、神奈の着替えなのだろう。

【裏葉】「あの、神奈さま。そちらは…?」

【神奈】「案ずるな。ただの曲者(くせもの)だ」

【柳也】「どういう紹介だ」

【神奈】「いきなり余の尻にさわったであろ」

【柳也】「さわりたくなったものは、しかたがない」

【柳也】「さわられたくなければ、隠せばよかっただろ?」

【裏葉】「神奈さま、いったいどのようなご格好で…」

【神奈】「ちがうちがうちがうぞっ」

【神奈】「隠しておった。余はちゃんと隠しておったぞ」

あわてふためいてから、俺の笑いに気づく。

【神奈】「見てのとおり、曲者で痴れ者だ。裏葉も気をゆるすでないぞ」

こほんと咳払いすると、何事もなかったようにそうつけくわえる。

【裏葉】「うふふふ…」

【神奈】「なんだ、なにがおかしい?」

【裏葉】「恥じらう神奈さまのお姿が」

【神奈】「恥も糸瓜(へちま)もあるものか。余は憤慨しておるのだ」

【裏葉】「でも、お顔が赤うございますよ?」

ずばり言われて、その顔がさらに赤くなる。

【神奈】「こっ、この者に作法を教えてやるがよい」

神奈は座敷を飛び出していった。

だんだん! という大きな足音が遠ざかっていく。

【柳也】「…どっちがどっちに教えたらいいんだ?」

【裏葉】「さあ…」

裏葉と二人きりになってから、名乗っていないことに気づいた。

【柳也】「俺は柳也という。位は正八位衛門大志、ここには今朝着任したばかりだ」

しかし、反応はない。

じろじろと顔を眺めわたされ、なんとも居心地がわるい。

と、唐突にこんなことを訊いてきた。

【裏葉】「衛門さまは、どうして神奈さまのお尻にさわられましたか」

【柳也】「どこにでもいる普通の娘のように思えたからだ」

【裏葉】「…でございますよね」

安心したように、何度も頷く。

【裏葉】「わたくしも神奈さまのお尻にはさわりとうございます」

【裏葉】「わたくしが殿方であれば、そうしておりましたでしょう」

涼しい顔で、すごいことを言う。

【柳也】「今度、手伝ってやるよ」

【裏葉】「機会がありましたら」

翌朝。

俺は正式に神奈備命(かんなびのみこと)警護の任についた。

俺の役職は大志という。

社殿の警護を指揮する立場だ。

名目上は、勅命を受け衛門府から派遣されたことになっている。

とはいえ、護手が二十名に満たないここでは、雑用をおこなうことも多い。

俺にあたえられた最初の任も、立番だった。

早い話が、ただの見張りだ。

真面目そうな若侍と対になり、正門を守る。

あたりは青々とした夏の山。

ときおり吹く風も、汗ばむ肌に心地よい。

半刻もしないうちに、若侍がうたた寝をはじめた。

俺は苦笑しながら、心中ではまったく別のことを考えていた。

運よく仕官の口を得たといっても、しょせん俺は無頼者(ぶらいもの)だ。

ことが起これば、部下や上役に裏切られることもありえる。

己の置かれた立場を正しく把握すること。

俺のような身分の者が生き抜いていくには、それが絶対に必要だった。

非直の時間をつかって、社殿の様子をそれとなくうかがった。

社殿は、敷地全体を杉の板塀にかこまれている。

正門はもちろん、裏木戸にいたるまで寝ずの番がつく。

貴人を護るのだから当然の用心だ。

だが、人員の割り振り方に違和感があった。

見張りに必要なはずの、高見の櫓(やぐら)もない。

何者かが攻め入ってくることを想定しているのではない。

むしろ、内から外に出るのを警戒した配置に思えた。

最初の数日は立番が続いた。

神奈本人はおろか、おつきの女官さえ見かける機会はなかった。

五日ほどたったある日。

見覚えのある女官に声をかけられた。

俺は詰め所の奥で、ひとり事務をとっていた。

書状の文面を考えあぐね、もがき苦しんでいたというのが正しいが。

【裏葉】「衛門さま」

【柳也】「うおあっ」

あやうく、墨を硯(すずり)ごとぶちまけるところだった。

【裏葉】「にぎやかでございますね」

【柳也】「そっちが静かすぎるのが悪い」

今度もまったく気配がしなかった。

仕事に気をとられていたせいもあるが、武士として体裁のいいことではない。

裏葉は俺の前の真っ白な紙を見て、なぜか目を丸くした。

【裏葉】「あらあらまあまあ…」

【柳也】「どうした?」

【裏葉】「衛門さまは文(ふみ)をあぶりだしでお書きになるのですか?」

【柳也】「あぶりだし?」

【裏葉】「橘(たちばな)の汁を筆にふくませ、文字をしたためますれば…」

【裏葉】「万が一他人に文をとかれても、あら不思議」

【柳也】「いや、あら不思議じゃなくてだな」

【柳也】「あぶりだしで書いたら、文を送った相手だって読めないだろ」

【裏葉】「『この文はあぶりだしでしたためた』と、墨ではし書きしておけば」

【柳也】「………」

完全に無意味だと思うが。

裏葉の顔をしげしげと眺めてしまった。

冗談なのか本気なのか、まったく読めないところが怖い。

【柳也】「で、何用か?」

口調を戻して言うと、裏葉も居住まいをただした。

【裏葉】「社中の守警に関しまして、ご足労いただきたく…」

言葉をにごし、意味ありげに廊下に視線をやる。

【柳也】「しかし…」

【裏葉】「神奈備様御直々(おんじきじき)のお申しつけにありますれば」

【柳也】「あいわかった」

これで形式はととのえたというわけだ。

俺は筆をおき、床から腰をあげた。

【柳也】「それはそうと、『衛門さま』はやめてくれないか?」

【裏葉】「なぜでございましょうか?」

【柳也】「型苦しいのは苦手なんだ」

【裏葉】「なら、どのようにお呼びすれば?」

【柳也】「柳也でいい」

【裏葉】「では柳也さま、まいりましょう」

【柳也】「ああ」

【神奈】「おそかったではないか」

俺の姿を見つけるなり、神奈は不機嫌そうに言った。

【神奈】「この五日、姿も見せずになにをしておったのだ」

【柳也】「仕事をしてたんだ、仕事を」

【神奈】「そのようなくだらぬもの、放っておけばよいであろ」

【柳也】「………」

【神奈】「まったく、益体(やくたい)もない」

【柳也】「益体ないのはおまえの頭だっ!」

【神奈】「ほお。曲者痴れ者のぶんざいで、余をうつけ呼ばわりするとは笑止千万」

【裏葉】「まあまあ、神奈さま」

俺たちの様子を見かねて、裏葉が間に入ってきた。

【裏葉】「柳也さまも大人げない」

やんわりといさめられ、俺もやっと我にかえった。

最初に会った時以来、神奈と話しているとどうもおかしな調子になる。

【柳也】「面目ない」

【神奈】「うむ。わかればよい」

【柳也】「おまえに謝ったんじゃない」

【神奈】「隠さぬでもよい。無礼はすべて赦(ゆる)してつかわすゆえ」

【神奈】「余はなんと寛大なことよの」

【柳也】「………」

なにを言っても無駄に思えてきたので、話題をかえることにした。

【柳也】「で、俺になんの用だ?」

【神奈】「まず座るがよい」

俺はその場にどっかりとあぐらをかいた。

着物の裾を合わせながら、裏葉もとなりに座る。

【神奈】「余と二人だけではつまらぬと、裏葉がうるさく申すのでな」

【神奈】「特別にはからい、呼び寄せてやったのだ。ありがたく思え」

【柳也】「本当か?」

【裏葉】「もちろん、空言(そらごと)でございます」

【裏葉】「神奈さまはこのところ柳也さまのお話ばかり」

【裏葉】「何かにつけて『あの者は来ぬのか』とおっしゃるものですから」

裏葉が気をきかせて、執務中の俺に声をかけたらしい。

【神奈】「そっ、そのようなことは断じてないぞ」

【神奈】「裏葉はなにか勘ちがいをしておるのだ」

わめいている神奈を尻目に、裏葉が神妙なおももちで訊いてきた。

【裏葉】「やはり、ご迷惑でしたでしょうか?」

【柳也】「いや、それはいいんだが……」

この三人で集まって、なにをしろというのだ?

俺は想像してみた。

寝所に近い一室での密会。

そばにいるのは美しい翠髪(すいはつ)の女官と、やんごとなき貴人…。

神奈の顔を覗きこむ。

貴人というより奇人か、これは。

【神奈】「余はおまえが今、無礼なことを考えておるような気がするぞ」

【柳也】「…とりあえず、姿かたちは放っておくとしてもだ」

【柳也】「せめてこのおかしな言葉づかいだけでもどうにかならないか、と考えてたんだ」

【神奈】「余の言葉のどこがおかしい」

【柳也】「まず、その『余』ってのがおかしい」

神奈の言葉づかいは、公家と武家の物言いがまじりあった独特のものだ。

身分としてはおかしくないが、男言葉なので珍妙なことこの上ない。

【裏葉】「わたくしがおつかえしました時には、もうこのようにお話しでしたから」

苦笑いしながら、裏葉が言う。

【神奈】「では、余は余のことをなんと呼べばよいのだ?」

【柳也】「『まろ』か『わらわ』だろうな」

【神奈】「余は余であって、まろでもわらわでもないぞ」

【柳也】「理屈になってないぞ」

【神奈】「理屈などいらぬ」

【裏葉】「はあっ…」

【柳也】「…なぜそっちで溜息をついている?」

【裏葉】「うらやましいのでございます」

【柳也】「何が」

【裏葉】「そのように神奈さまと親しくお話しされる柳也さまが」

【柳也】「これが親しく話しているように見えるのか?」

だとしたら相当に脳天気な性質(たち)だ。

【裏葉】「ええ、見えますとも」

やっぱりそう答えるか。

【裏葉】「それに…柳也さまだけでございます」

【裏葉】「神奈さまのご身分を知ったあとも、変わらぬままでおられるのは」

【神奈】「たしかに。変わった男よの」

【柳也】「お前にだけは言われたくないぞ」

口ではそう言ったものの、裏葉の言葉は俺に役職を思いおこさせた。

【柳也】「そろそろ戻るぞ」

俺が腰を浮かすと、裏葉も立ちあがった。

【裏葉】「もうしばらく、お相手をお願いできませんか?」

【柳也】「使いの者を待たせている」

もっとも、渡す書状はまだ白紙のままだが。

神奈はだまったままだったが、やがてぼそりと言った。

【神奈】「また来るがよい」

【柳也】「そう簡単にここに来れるようでは、俺の仕事ぶりが疑われる」

一礼してその場を辞そうとした時。

神奈の声が聞こえた。

【神奈】「余は、変わりものであろうか?」

【柳也】「俺と同じぐらいにな」

俺はそう答えた。

神奈は安心したようだった。

【神奈】「よいか、また来るのだぞ」

それだけ言って、そっけなく背中を向けた。

話の間じゅう、神奈に羽があるのを忘れていた自分に気づいた。

退屈な任務が続いた。

慣れるにしたがって、社中の雰囲気もつかめるようになってきた。

気になることがあった。

守護職全体の士気が、あまりにも低い。

立番はおざなり、警邏(けいら)もお粗末なものだ。

女官たちも同じだ。

神奈の身の回りの世話さえ、定めどおりなされているか怪しい。

社殿につとめる者たちが、真面目に職務を果たす気がないことは明らかだった。

守護すべき者への無関心は、俺にとっては好都合だった。

俺は日に一度、神奈の座敷を訪ねるようになっていた。

【柳也】「神奈、おまえ、本当に翼人か?」

【神奈】「来て早々に、そのいいぐさはなんだ」

【柳也】「みなの様子を見ていると、どうにも解(げ)せないことがある」

翼人は天からつかわされた存在、とされている。

飢饉や疫病にのぞんでは、霊力をもって加持祈祷をなす。

言ってみれば、神々と直談判できる存在だ。

巫女装束を身につけていても、普通の巫女とは位が天と地ほどちがうはずなのに。

【柳也】「話に聞いていたのと、ずいぶん処遇がちがう」

そのことか、とでも言いたげに、神奈は溜息をはく。

【神奈】「余にもわからぬ。昔からそうであったからな」

【神奈】「それに、余は神の使いなどではない」

【柳也】「しかし、羽はあるんだろう?」

【神奈】「羽があるからといって、神の使いとはかぎらぬ」

【柳也】「たしかにそうだ。竈馬(いとど)にも蟋蟀(きりぎりす)にも羽はある」

【神奈】「おまえのたとえはいちいち気にさわる」

【裏葉】「藪蚊(やぶか)にも猩猩(しょうじょう)にも羽はございますね」

【神奈】「なお悪いわっ」

神奈が振り向いた先で、裏葉がにっこりとほほえんでいた。

いつもながら、見事なまでに気配がない。

裾をすべらせて畳にあがり、ささげ持っていた高坏(たかつき)をそっと置く。

こんもりと盛ってあったのは、真っ白な雪のかけらだった。

【柳也】「その氷はどこにあった?」

【裏葉】「さきほど酒殿の前を通りましたら、その奧になにやら恐ろしげな冷気をはなつ小屋がありまして」

【裏葉】「入ってみましたらあら不思議、夏の盛りだというのにこのような氷が」

【神奈】「ほお。それは奇怪なことよの」

【裏葉】「守護方にご報告せねばなるまいと思い、こうして持参いたしました」

【柳也】「それは氷室(ひむろ)といって、冬に降った雪をたくわえておくための小屋だ」

【裏葉】「はあ、そうでございますか」

【柳也】「ちなみにことわりなく氷室に入れば重罪だ」

【裏葉】「あらあらまあまあ」

【神奈】「剣呑剣呑」

両人ともに、まったく反省の色なし。

【柳也】「まったく、氷室びらきはまだ先だというのに」

【裏葉】「これはもともと神奈さまのためにたくわえられたもの」

【裏葉】「それに、今さら戻しましても、氷室につく前に溶けてしまいます」

困ったように言うが、もちろんすべて計算の上だろう。

【柳也】「まあいい」

俺が頷くと、裏葉は居住まいをととのえ、神奈に正対した。

まず自分が雪片を口にふくみ、それから高坏を神奈の前に置く。

【裏葉】「さあ神奈さま、どうぞ」

【神奈】「うむ、大儀であった」

【柳也】「やっぱりおまえが言いつけたな」

【神奈】「無論であろ。このような暑い日にひらかんで、なにが氷室か」

氷を指でつまみあげ、そのまま口に運ぶ。

薄桃色をした唇が、しゃくっと鳴った。

【神奈】「つべたいのお」

【神奈】「柳也どのもためすがよい。特に許してつかわす」

神奈備様への供物を口にするなど、到底許されることではない。

今さら説明するのも馬鹿馬鹿しく、俺はおとなしく頭を下げた。

【柳也】「ありがたき幸せ」

雪片をつまみ、指がかじかむ感触を楽しむ。

外は蒸し暑い。

御簾(みす)の向こうを吹く風は、どこかまがまがしい気配をはらんでいる。

雪片を口に入れる。

しみるような冷たさは、俺の不安をほんの一時だけ忘れさせた。

【裏葉】「こうして三人で同じ氷をいただいておりますと、まるで…」

【柳也】「寒空にたくわえもなく、軒下の雪で飢えをしのぐ死にかけた家族のようだな」

【裏葉】「たいそう楽しげなたとえでございますね」

【柳也】「真顔で返すな、真顔で」

【神奈】「………」

【柳也】「どうした。氷の食いすぎで腹でも冷やしたか?」

【神奈】「家族、とはどのようなものだ?」

答えたのは裏葉が先だった。

【裏葉】「そうでございますね」

【裏葉】「しいて申しますなら…」

ぴとっ。

【裏葉】「このようなものでございましょうか」

神奈の背中ごしに、ぴったりと身をよせる。

【神奈】「こらっ、この暑いのにはりつくでない。はなれよっ」

【裏葉】「………」

さびしそうに肩を落とし、座敷を出ていこうとする。

【神奈】「まてまて、そこまで離れずともよい」

ぴとっ。

【神奈】「だから、はりつくでないと言うておろうが」

【裏葉】「………」

【神奈】「まてまてまてっ、いちいち去ろうとするでない。もどれ、ちこう寄れ」

ぴとぴとっ。

【神奈】「…なぜおまえまで余にひっつく?」

【柳也】「いや、何となくなりゆきで」

【神奈】「ふたりとも余から離れよっ」

【裏葉】「………」

【柳也】「………」

【神奈】「だから、ふたりとも出てゆくでないっ!」

【柳也】「ああだこうだと注文が多い」

【裏葉】「まったく、まったく」

【神奈】「そなたたちは余をからかっておるのだろ?」

【裏葉】「めっそうもございません」

【裏葉】「家族とは、このように身を寄せあって暮らすものでございます」

【神奈】「そうか」

【柳也】「…そうか?」

何かちがうような気がするが。

【裏葉】「そうでございますとも」

もう一度すり寄り、てれくさそうな神奈の顔を袖でつつむ。

【神奈】「い、息が苦しいぞ」

【裏葉】「息苦しいほど身を寄せあうのが、まことの家族というもの」

ぎゅううううっ。

じたばたする神奈と、あくまでも笑顔の裏葉。

無理して見れば、仲むつまじい母子に思えないこともない。

【神奈】「ふむむっ。ふむむふむーむむむむむぅ…」

【裏葉】「この身には過分なおほめの言葉、恐悦至極にぞんじます」

【柳也】「俺には『苦しいっ、息ができぬからはなせ』と言ってるように思えるが」

【裏葉】「それは柳也さまのお耳がひねくれているのでございます」

【裏葉】「ねえ、神奈さま」

【神奈】「………」

【裏葉】「神奈さま?」

【神奈】「ぷはっ」

【裏葉】「あらあら、お顔が真っ赤」

【神奈】「…だれの、せいだと、思うておるのだ?」

息もたえだえの神奈に、裏葉はしれっと答えた。

【裏葉】「神奈さまが可愛いすぎるのがいけないのでございます」

【神奈】「まったく、裏葉のなす事はいちいちとっぴでいかん」

誉められてまんざらでもないのか、ぶつぶつ小声で言う。

神奈のことを見守っていた裏葉が、そっと俺に向きなおった。

【裏葉】「まだむずかしい顔をされておいでですね」

【柳也】「生まれつきだからな」

【神奈】「つまらぬ。余の前ではほかの顔をせよ」

【柳也】「無茶を言うな」

神奈のことをうかがい見る。

知れば知るほど、神奈の心根は娘子と相違ない。

【柳也】「神奈はいつからこんな暮らしをしている?」

【裏葉】「柳也さまがご着任されてからは、このような明るい暮らしぶりに…」

【柳也】「そうじゃない。社殿に住まうようになったのはいつからだ?」

【神奈】「覚えておらぬ。物心ついた時には、もう閉じこめられておった」

神奈の瞳がさっと曇った。

触れられたくないことだったのだろう。

【柳也】「そうか」

俺はそれ以上の詮索をあきらめ、あぐらをかき直した。

高坏の氷はとうに水となり、ゆらゆらと波紋をたてていた。

妙な噂を知ったのは、その日の夕刻だった。

日没近く、裏戸番の引き継ぎをした。

山中の夜は早い。

向こうの山に日が落ちれば、暗闇が社殿をおおうまで四半刻もない。

松明(たいまつ)に種火を移していると、衛士(えいし)の不安げな様子に気づいた。

【柳也】「何をそうおどおどしている?」

【柳也】「これから非直という時に、心配事でもあるまい」

【衛士】「衛門さまは、ご存じないので?」

ひかえめな口調に、非難の匂いを感じた。

守護職の態度は二種類あった。

あからさまに任を軽んじる者と、なにかを恐れるように息を殺し、奉公明けを待つ者。

この衛士は後者だった。

【柳也】「話してみろ。他言はしない」

うながしてやると、辺りをはばかるように喋りはじめた。

【衛士】「みな、気が気ではありません」

【衛士】「神奈備様は、その…」

【衛士】「人ではありません」

【衛士】「みだりにふれれば、神罰が下るのではないかと」

【柳也】「しかし、俺の見たところでは、神罰など信じている者は少ないようだが」

衛士は何事か考えたあと、さらに声を落として言った。

【衛士】「かつてここより南の社に、翼人の母子が囚(とら)われていたと聞いております」

【柳也】「囚われていた?」

思わず聞き返した。

『囚われていた』など、翼人を護る者が口にすべき言葉ではない。

だが、衛士はこう言葉を続けた。

【衛士】「母親は人心とまじわり、悪鬼となりはてた、と…」

その晩。

不寝番を終え、詰め所にもどる途中だった。

だれもが寝静まっているはずの本殿に、新たな灯がともされた。

不審に思い、近づいてみた。

起き出してきたのは、神奈だった。

小さな燭台をかたわらに置き、階段(きざはし)に腰かける。

神奈は月を見上げているようだった。

冷たい月光に照りはえた頬が、白磁のようだった。

【柳也】「どうかしたか?」

【神奈】「柳也どのか…」

【柳也】「まだ夜明けには間がある。身体にさわるから、早く寝ろ」

【神奈】「そなた、今日はひとりなのか?」

忠告を聞こうとせず、逆に質問を返してくる。

【柳也】「夜番の者が物病(ものやみ)で、床から起きない。おかげで寝ずの番だ」

【神奈】「そうか」

そのまま、神奈はだまってしまう。

俺はとっさに、声をかけられなくなった。

それほどまでに、表情がはかなげだったからだ。

【神奈】「…柳也どのは、夢を見るか」

【柳也】「夢か?」

【神奈】「そうだ」

【柳也】「たまにはな。昔のことをときおり見るくらいだ」

【神奈】「どんな夢か、聞かせてもらえぬか」

俺は昔見た夢をぼんやりと頭に浮かべた。

【柳也】「…旅の空のことだ」

【柳也】「土地土地で会った人々や風物が、とりとめもなく現れる」

【神奈】「旅か…。ひとりでか?」

【柳也】「そうだ」

【神奈】「そうか」

月光の下で、眉根がかすかにゆらぐ。

【神奈】「その夢は楽しげなものか?」

【柳也】「…つらい夢だな。どちらかと訊かれれば」

【神奈】「つらい夢を見た後は、そなたはどんな心持ちになるのだ」

【柳也】「雨雲、かな」

【神奈】「雨雲?」

【柳也】「降りだしそうな雨をかかえた雲だ」

【神奈】「ならば、どうやって追いはらうのだ」

【柳也】「雨雲は時が流してくれるさ。ただ過ぎるのを待つだけだ」

【神奈】「そうかもしれぬな」

かすかにふくみ笑い、俺を見あげる。

燭台の照りかえしを受け、童子のような瞳がゆれる。

【神奈】「長雨もあるが、その時はどういたす?」

【柳也】「長雨か。そうだな…」

【柳也】「だれかに話し、うさを晴らすくらいのものだな」

【神奈】「ならば、聞け」

【神奈】「雨が降っておる」

【柳也】「俺には風雅な月夜に思えるが」

【神奈】「たとえで申しておるのだ」

【柳也】「………」

何も答えずにいると、ぶっきらぼうな声音が命じた。

【神奈】「そこでは声が遠い。ちこう寄れ」

【神奈】「だが、くっつくではないぞ」

【柳也】「わかっている。こんな夜更けに悪戯(わるふざけ)などしない」

ごんっっ!

【神奈】「やっておるではないかっ」

【柳也】「暗くて見通せなかっただけだ」

【神奈】「まったく、益体もない」

【柳也】「ここでいいだろ」

【神奈】「よい」

満足そうに頷く。

月を仰ぎ、そのまま語り出す。

【神奈】「ちょうど、このような暗闇に、幼き日の余がすわっている」

【神奈】「なにも見えぬ。この身があるのかさえわからぬ」

【神奈】「恐ろしくて、さびしくて、それでも泣くわけにいかぬ」

【神奈】「助けてくれとわめくこともかなわぬ。そのような日々だ」

言葉を切り、だまって月を見つめる。

【神奈】「だが、ひとつだけ温かい光を見る時がある」

【神奈】「おぼろげに浮かぶ、人の姿だ」

【神奈】「近づくと、光は消えてしまう」

【神奈】「余は追いかけようとする」

【神奈】「いつも、そこで目が覚める」

【神奈】「一度ではない。幾度も同じ夢を見る」

話の内容とはうらはらに、神奈は笑顔だった。

笑顔には、凶相を払う力があるとされている。

だとすれば、神奈の笑みは空蝉(うつせみ)にすぎなかった。

永劫の闇をともす、温かな光。

求めても求めても、決して得られるはずのないもの。

【神奈】「柳也どのには、だれかわかるか?」

【柳也】「神奈の母君(ははぎみ)だろう」

おそらく神奈は、その答えを予期していたのだろう。

風が吹きわたり、燭台の炎をゆらした。

黒々とした神奈の髪が、闇を払うようにふくらんだ。

【神奈】「…余は、母の顔など覚えておらぬぞ」

【柳也】「夢ってのは、どこかで見た景色を思い出しているんだ」

【柳也】「だから、覚えていなくても見ることはある」

【神奈】「…どこかで見た景色?」

神奈が首をかしげる。

【柳也】「神奈も、母君から産まれたんだろ?」

【柳也】「いつ離れたのか知らないが、お前は忘れてないんだ」

そう言ってなお、自分の笑みが苦かった。

俺は親の顔を知らない。

夢枕に現れたこともない。

だが、神奈は笑った。

【神奈】「我が身が覚えておるのか」

自分の胸元に、そっと手のひらをあてる。

【神奈】「ならば、悪い夢というわけでもないの」

また、風が吹く。

折り込まれた事実のように、沈黙が過ぎていく。

不意に、神奈が言った。

【神奈】「逢いたい…」

【神奈】「そう想うのは、我が身には過分なことか」

だれに聞かせるでもないつぶやき。

俺は何も言えず、おしだまるしかない。

【神奈】「よい。そなたのせいではない」

雰囲気を察したのか、神奈は慰めを言った。

【神奈】「柳也どのは、己の責務を果たしておるだけだ」

【柳也】「ああ…」

【神奈】「余も己の責務を果たすとしようぞ。寝間に戻る」

俺は一礼し、詰め所へと歩を進める。

だが、背後の気配はいっこうに動かない。

振り向くと、神奈が立ちつくしていた。

【柳也】「どうした?」

答えはない。

【柳也】「さびしいのか?」

月光の加減なのか、瞳はうるんでいるようにも見える。

【柳也】「泣いているのか?」

【神奈】「ひとりは、つらい」

【神奈】「これほどまでにつらいとは、思うたことがない」

【神奈】「守護、大儀である」

その一言を残して、神奈は寝所へと消えていった。

翌朝。

出仕の前の打ち合わせの時だった。

上役は、思ってもいなかったことを伝えた。

【役人】「…神奈備命は五穀豊穣の願を唱えるべく、北の社にところを移すことにあいなった」

【役人】「出立は土用の入り、大暑と定める」

【役人】「みな、次の命(めい)が下るまで万端につとめよ」

以上である、としめくくりかけた時、ようやく事の重大さが飲みこめた。

神奈をここから別の社に移す、というのだ。

俺にはまったく寝耳に水の話だった。

【柳也】「質疑がある」

【役人】「申してみよ」

【柳也】「われらも、神奈備命につき従い、あらたな社へおもむくのか?」

【役人】「いや、荘園の世話もせねばならん。われらはすべて残り、開墾の指示に従ずる事になる」

周囲の者たちが安堵の息を漏らした。

俺のような無頼者をのぞけば、ほとんどが百姓の出だ。

もとより、翼人の警護を納得している者などいない。

【柳也】「納得できぬ。翼人を守護せよとの命を受け、ここに赴(おもむ)いたのだ」

【役人】「その命は撤回される」

【柳也】「なにゆえに?」

【役人】「先ほど申したであろうが」

不毛なやり取りが続けられた。

だが、俺の意向は受けつけられなかった。

守護役ではただひとり、毛並みのちがう俺を応援する者はいなかった。

通達が済み、一日の仕事がはじまろうとしている。

それにもかかわらず、俺は神奈の元へと走っていた。

【柳也】「神奈、聞いたか?」

【神奈】「騒々しいの。何用だ」

【柳也】「騒々しくもなる。おまえが北の社に移ると、通達があった」

【神奈】「ほう、もうそのような時期か」

神奈は驚きもせずに答えた。

【柳也】「どういうことだ?」

【神奈】「毎年そういったことがあるからの」

【柳也】「しかし、俺は今朝まで知らなかった」

着任の時、俺の任期は決められていなかった。

事情をたしかめなかった己のうかつさを呪った。

しかし、俺がいきり立ったところで、決定を変えられるものではない。

【神奈】「決まりは決まりだ。柳也どのにどうなるものでもあるまい」

俺の心中がわかったのか、神奈が皮肉まじりに言った。

【柳也】「だからといって、この処遇はあまりに…」

【神奈】「随身(ずいじん)は別に定め、社の者はここに残る…であろ?」

【柳也】「知ってたのか?」

【神奈】「いつものことであるからの」

呑気をよそおい、虚ろに笑う。

【神奈】「ここで別れだ。出立はいつ頃となっておる?」

【柳也】「土用の大暑」

【神奈】「とすると、そう日もないの」

【柳也】「いいのか?」

俺の問いかけに、神奈の瞳が動いた。

【神奈】「なにがであるか」

【柳也】「離ればなれになってもいいのか、と訊いてる」

【神奈】「仕方ないであろ」

返事はまるで別人のように生気に欠けている。

【柳也】「裏葉とも、俺とも離れるんだぞ?」

【神奈】「ほう、そなたは余と離れたくないか?」

ささくれ立った声音で挑発する。

せいいっぱいの虚勢は、俺にはただ痛々しいだけだった。

【神奈】「先でも、変わり者はおる」

【柳也】「俺と裏葉はいない」

【神奈】「うぬぼれるでないっ! それほど余が弱く見えるかっ!」

【柳也】「………」

【神奈】「おぬしがおらずとも、余は生きてゆける」

それは、はじめて会った時に聞いた言葉だ。

『余はひとりでも生きてゆけるぞ』

そう言いはなった神奈のもうひとつの素顔を、俺は知ってしまった。

月光の下で俺に垣間見せた、意外なほどのもろさ。

あの時すでに、神奈は悟っていたのだろう。

いずれ自分がひとりで旅立つことを。

【柳也】「強がるな」

【神奈】「何だとっ」

【柳也】「さびしかったんじゃないのか?」

【神奈】「ちがう」

【柳也】「なら、なぜ俺に胸の内を明かした?」

【柳也】「さびしいから、母君に逢いたいんじゃないのか?」

【神奈】「そうは申しておらぬ!」

【神奈】「望んでも逢えぬものは、詮無(せんな)いことと申しておるのだ」

【柳也】「なぜ逢えないと決めつける?」

【柳也】「お前の母君は死んだのか?」

一瞬で神奈の顔色が変わった。

【神奈】「死んでなどおらぬ!」

【柳也】「なぜそう言い切れる?」

【神奈】「死んでなどおらぬっ。そのようなはずがない!」

頬を真っ赤にし、駄々っ子のように首を振る。

神奈の気持ちは俺にもわかった。

夢の中で見た、淡く温かい光。

それさえもが幻だとしたら。

【神奈】「母上はかならず…」

【神奈】「かならず、どこかで余のことを…」

そこから先は、言葉が続かなかった。

崩れそうになった威厳を、袖でおおい隠した。

【神奈】「去れっ。顔も見とうない」

俺は黙礼して、神奈の座敷を辞した。

いれちがいに現れた女官が、驚いてこちらを振り向く。

怒気は消しようがなかった。

自分がなにに怒っているのか、よくわからなかった。

夜番の交代前に、俺は裏葉を訪ねた。

ちらかった部屋の中で、忙しくばたばたと立ち働いていた。

【柳也】「何をしてる?」

びくりと肩を震わせ、こちらを振り向く。

声の主が俺だとわかると、裏葉は緊張をといた。

【裏葉】「ただいま取りこみ中でございます。ご用件はのちほど」

にべもなく言う。

裏葉は旅支度をしているようだった。

黒塗りの背負いつづらに、たたんだ着物をぎゅうぎゅうとつめこんでいる。

【柳也】「おい」

【裏葉】「放っておいてくださいませ」

【柳也】「どこかに行くのか?」

【裏葉】「ええ、そうでございますとも」

きっとした表情には、強い怒りがただよっている。

【裏葉】「なぜ、神奈さまとお別れせねばならないのですか」

【柳也】「聞いたのか?」

【裏葉】「お仕えして、まだ半年も過ぎてはおりませぬ」

【裏葉】「これからと思っておりましたのに、この仕打ちは理不尽にすぎます」

【柳也】「ついていく気か?」

【裏葉】「あたりまえではございませんか」

なぜわからないのか、そう言いたげだった。

【柳也】「出立まで時間がないとはいえ、今日明日に出るわけじゃないぞ」

【裏葉】「ですから、その前にお連れするのではありませんか」

【柳也】「逃げる気か?」

俺は呆れ果てた。

逃げればどうなるかぐらい、それこそ幼子(おさなご)でもわかる。

【柳也】「女の足で逃げきれるほど、守りは甘くないはずだ」

【裏葉】「これでも足は達者(たっしゃ)ですので、ご心配は無用でございます」

溜息がもれた。

どうも最近多くなっているような気がする。

【柳也】「ひとつだけ訊いていいか?」

【裏葉】「なんでございましょう?」

【柳也】「なぜそれほどまで神奈のことを案ずる?」

【裏葉】「同じことを、わたくしも柳也さまに訊きとうございます」

にっこりと問いかえされ、思わず言葉をうしなう。

【柳也】「なぜだろうな…」

【柳也】「…強いて言うなら」

【裏葉】「強いて言うなら?」

【柳也】「あいつほど、からかいがいのある奴はいない」

【裏葉】「…で、ございますよね」

声をそろえ、二人して笑う。

【柳也】「先日の未明のことだ」

【裏葉】「はい?」

【柳也】「神奈が月を見ていた」

【柳也】「母親に逢いたい、そう言っていた」

【裏葉】「…そうでございましたか」

【裏葉】「わたくしが拝聴しましたのも、つい最近です」

【裏葉】「神奈さまは本当に、柳也さまをお気に入られたのですわ」

【柳也】「からかわれただけかもしれないぞ」

【裏葉】「それはございません」

自信たっぷりに言う。

【裏葉】「神奈さまは苛烈な性質(たち)であらせられますので、気に入らぬ者には見向きもされません」

【柳也】「そうか」

そこで、出仕の時刻を過ぎていたことに気づいた。

【柳也】「長居しすぎたようだ。夜番に行ってくる」

【裏葉】「はい、お気をつけ下さいませ」

部屋を出ようとしたところで、大切なことを思い出した。

床にちらかった装束のたぐいを指さし、声を落として伝える。

【柳也】「悪いようにはしないから、自重(じちょう)しておいてくれ」

【裏葉】「なにをなさるおつもりですか?」

【柳也】「いや、ちょっとした約束を取りつけるだけだ」

【裏葉】「神奈さまの御為(おんため)に、ですか?」

【柳也】「いや、自分のためにさ」

【裏葉】「ご自分のために、ですか?」

俺はなにも答えず、ただ笑ってみせた。

神奈に会う機会は、なかなか訪れなかった。

『自重しろ』と言った手前、裏葉の助けは借りたくない。

適当な理由をつくり、座敷に日参するが、そのたびに女官にとめられた。

【女官】「神奈備様にあらせられましては、本日は御気分がすぐれないとのこと」

【柳也】「あいわかった」

【柳也】「まだ臍(へそ)を曲げているのか…」

【女官】「はあ?」

【柳也】「いや、何でもない」

あわててごまかし、俺は詰め所に引き返した。

神奈への目通りもかなわず、日々がすぎていく。

守護の任が終わるというしらせは、社殿全体の緊張を取りはらっていた。

社中の者たちはみな、憑き物が落ちたように笑い、冗談をかわしあう。

神奈が社殿を去る三日前。

上役が辺りをはばかるように声をひそめ、言った。

【役人】「一両日中に、この社殿および神奈備命に関する文書、文消息(もんじょ、ふみしょうそく)のたぐいをすべて集めよ」

【柳也】「つまり、神奈備様が出立される前に、と?」

【役人】「よけいな詮索は無用」

【柳也】「それはなにゆえに?」

なおも食いさがろうとした俺に、上役はにべもなく言いすてた。

【役人】「貴殿は知らずともよいことだ」

廊下を歩きながら、俺はあることを考え続けていた。

手薄すぎる警護。

士気が落ちるままにまかせ、訓練さえしなかった上役。

神奈が去るのと時を合わせて集められる文書のたぐい…

神奈の異動を知った日から感じていたきざしが、俺の中で確信に変わっていった。

これには何か裏がある、と。

大暑の前日。

その日の仕事を終え、俺は私室に引き籠もった。

明日、神奈はこの社殿を去る。

随身も餞(はなむけ)もない、さびしい出立だ。

向かう先がどこなのか、俺は知るはずもない。

衝立(ついたて)をまくように、湿り気を帯びた風が入ってきた。

夜半から雨になるな。そう思った。

【柳也】「………」

枕元に置いている長太刀を持ちあげ、すらりと刀身をさらした。

銀色をした刃が、薄闇を吸うのがわかる。

今夜の手順を心中で整理してみる。

準備は万端にととのえてある。

邪念が忍び寄ってくる。

馬鹿げたことをしているぞ、頭の中でそうささやく声がある。

なぜ自ら重荷を背負おうとする? そうせせら笑う。

お前はひとりで生きてきたのだ。これからもひとりで生きよ、と…

両眼を閉じ、刃を鞘におさめる。

かちん。

切羽(せっぱ)が澄んだ音を立て、心は決まった。

行動を起こしたのは、日没から半刻ほどあとだった。

【衛士】「衛門さま、ご苦労様でございます」

【柳也】「ああ、ご苦労さん」

宿直(とのい)の衛士が充分に遠ざかってから、気づかれないよう殿内に入る。

目指すのは、神奈の寝所だった。

無謀なことをしているのは、自分でもわかっていた。

神奈の寝所に入れる者は、裏葉を含めた数人の女官だけだ。

昼間ならごまかしようもあるが、夜ではそうもいかない。

発覚すればこの場で首が飛ぶ。

罷免(ひめん)という意味ではなく、ほんものの俺の生首が、だ。

足音をころし、慎重に歩みを進める。

だれにも見つかることなく、神奈の御座に入ることができた。

夜風が入りやすいように、簾(す)は降ろしてはいない。

かわりに、屏風(びょうぶ)を立てており、外からは見えないようになっていた。

明かりが漏れていた。

寝所に歩を進める。

思った通り、燈台の火がともっていた。

きっと、遅くまで寝つけずにいたのだろう。

枕元にかがみこみ、耳元でささやいてみる。

【柳也】「…おい、神奈。起きろ」

夜具の下の体がごそごそと動いた。

面倒くさそうに寝返りを打とうとして、気配に気づいた。

瞳が薄くひらき、俺の方を向く。

【柳也】「おはよう」

【神奈】「………」

ゆっくりと首をめぐらし、部屋を見渡す。

自分の目前に、あるはずのないものを見つける。

つまり、この俺だ。

【神奈】「くっ、曲者っ!」

【柳也】「俺だ俺だ。大声を出すな」

あわてて口をふさぐ。

【柳也】「そうあばれるな。ちょっと話があるんだ」

【神奈】「むーっ! むむむっ! むむむぐうむうむ……」

思いつくかぎりの罵詈雑言を並べているようだ。それだけはわかる。

【柳也】「別に怪しいことをしに来たんじゃない」

【柳也】「とりあえず、怒鳴るのだけはやめてくれ。わかったか?」

【神奈】「むがむが…」

【柳也】「わかったら、うなずいてくれ」

しぶしぶながら、神奈はうなずいた。

そっと手を離したとたん。

ぼかっ。

いきなり頭を殴られた。

【神奈】「余に夜這いをかけるとは、ふざけたまねをしてくれるの…」

【柳也】「だから夜這いじゃないっての」

【神奈】「言い逃れをするでない」

【柳也】「ちがうって」

【神奈】「なら、なぜこんな真似をっ…」

【柳也】「約束をもらうためだ」

それだけを伝えた。

俺の声音になにかを感じ取ったのだろう。神奈の顔色が変わった。

【神奈】「約束…とな?」

【柳也】「俺はこの社に奉公する者だ。社殿の法をひるがえすことはできない」

【柳也】「でも、ただひとつ…」

【柳也】「俺は役目がら、神奈備命の直命には絶対にさからえないことになっている」

【柳也】「もっとも、今までさんざんさからってきたけどな」

笑いながらつけくわえる。

神奈は笑わなかった。

俺がなにを言い出すのか、計りかねているようだった。

【柳也】「だから、な」

【柳也】「おまえが『母君に逢わせろ』と言えば、俺はそのために命をかける」

【柳也】「神奈」

【柳也】「主(あるじ)としての命を、俺に与えるか?」

神奈が絶句したのがわかった。

神奈がここを離れると聞いた時から、俺の腹は決まっていたのかもしれない。

ただ一言だけ、素直な心持ちさえ聞くことができれば。

俺は白刃に身をさらすことも厭(いと)わない。

【神奈】「………」

【柳也】「選ぶのはおまえだ。俺はこれ以上言わない」

その場に座り、返事を待つ。

ときおり、燈台の炎が揺れ、灯芯がちりちりと鳴った。

雨はもうそこまで来ていた。

ずいぶん長い時がすぎたように感じた。

そして、神奈は言った。

【神奈】「…では、余はそなたに命ずる」

【神奈】「母上の元まで余を案内せよ」

てれくさかったのだろう、言い捨ててからぷいと横を向く。

それで、すべてが決まった。

腰にくくりつけた長太刀を床に置く。

膝をつき、拳を肩幅にそろえ、床につける。

【柳也】「衛門正八位大志柳也。神奈備様が命、違えぬ事を誓約致し候」

【柳也】「…礼儀だからな、一応だ」

【神奈】「あいわかった。諸処万端に務めよ」

儀式はそれで終わった。

足を崩し、どちらからともなく破顔する。

俺はふところから包みを取り出し、神奈に手渡した。

中には女物の草鞋(わらじ)が入っている。

【柳也】「これをどこかに隠しておけ」

【柳也】「できるだけ寝ていろ。一刻たったら起こしに来てやるから」

【神奈】「…なにゆえだ?」

【柳也】「もうすぐ雨が来る。見張りの気もゆるむはずだ」

【柳也】「それに、寝ておかないと体力がもたない」

【神奈】「そうではない」

【神奈】「逃げきれると思っておるのか?」

【柳也】「これでも刀で位(くらい)をもらったんだぞ?」

【神奈】「嘘はつかぬ方が身のためだぞ」

【柳也】「そうか?」

【神奈】「おぬしが強いとも思えん」

言いきられては、苦笑するしかない。

【柳也】「俺はおまえに仕える者だ」

【柳也】「だから、おまえの望みをかなえてやる」

そこで俺は目を細め、自信ありげに笑ってみせた。

【神奈】「なにゆえ、余のためにそこまでする?」

【柳也】「さあ。なぜだろうな…」

それは俺の、素直な心持ちだった。

神奈はなにも言わず、ただ俺の顔を眺めていた。

【柳也】「それじゃ、あとでな」

衝立(ついたて)から向こうをうかがい、廊下に出ようとした時。

神奈がなにかを言おうとしたのを感じた。

【柳也】「なんだ?」

【神奈】「待って…おるからな」

【柳也】「やけに素直だな」

【柳也】「さては惚れたか?」

【神奈】「だれがそんなことを申したっ」

【柳也】「本当に寝ておけよ。あとあとつらくなるぞ」

神奈は素直にうなずいた。

俺は足音に気をつけながら、寝所をあとにした。

もうひとつ、訪ねるべきところがあった。

裏葉の寝間だ。

神奈の身の回りの世話は、ほとんどすべて裏葉がこなしている。

そのため、神奈の寝所に近い座敷に、私室を設けてある。

足音を殺したまま、寝間に入った。

がらんとした部屋の中央に、寝具がたたんであった。

しかし、人影はない。

【柳也】「裏葉、いないのか?」

目をこらし、だれもいない部屋を慎重に見渡す。

【裏葉】「お待ちしておりました」

【柳也】「うおあっっ」

暗がりの中に溶けこむように、裏葉がほほえんでいた。

貴人のそばに侍(はべ)る女官は、普段は邪魔にならないことを求められる。

それにしても、これほどまでに気配を消せるものなのか?

【柳也】「俺が来るのがわかってたみたいだな」

【裏葉】「ことを起こすなら、もう今宵(こよい)しかございません」

にっこりと笑う。

【裏葉】「すでに旅支度もととのえてございます」

俺は、裏葉の背後にぼんやりと見えるかたまりを指さした。

【柳也】「それが全部荷物か?」

【裏葉】「はい」

【裏葉】「すべて神奈さまの御衣(おんぞ)でございます」

【裏葉】「なにが入り用になるか、わかりませんでしたので」

葛籠(つづら)が十ばかり、小山をなしている。

その中に、子供が隠れられそうなひときわ大きな葛籠があった。

【柳也】「その大きな葛籠は?」

【裏葉】「十二単衣(じゅうにひとえ)一具でございます」

【裏葉】「五衣(いつつぎぬ)の重ねもうるわしく、神奈さまにはたいそうお似合いになります」

…ちなみに衣ひとそろえでは、雑兵の武具一式より重い。

【柳也】「置いていけ」

【裏葉】「なっ、なぜでございますか?」

大きな葛籠に取りすがり、真顔で問い返してくる。

【裏葉】「神奈さまが母君とご対面するあかつきには、ぜひにもこれをお召しにと思っておりましたのに」

【裏葉】「唐衣(からぎぬ)の色目もたいそう涼しげでございますのに~」

その場に身を伏せ、おおげさに泣き崩れる。

【柳也】「泣きたいのはこっちだ」

【柳也】「…っと、待てよ」

【柳也】「神奈を母君に逢わせる件は、まだ話してないはずだぞ」

【裏葉】「柳也さまのお考えなど、お見通しでございます」

やはり嘘泣きだった。

その時。

二人同時に気配を感じた。

衝立障子をへだてた向こうに、何者かが身をひそめている。

裏葉がするりと身を寄せてきた。

【裏葉】「…のぞき見られております」

耳元でささやく。

【柳也】「…そうらしいな」

俺も声を落として応じる。

のぞき見の主は、どうやら裏葉の同僚の女官らしかった。

息を殺しているつもりらしいが、まったく気配が消せていない。

【柳也】「夜這いに来たと思われたらしいな」

【裏葉】「そのようでございますね」

【柳也】「どうにかして追いはらいたい」

【裏葉】「それでは…」

裏葉は俺の胸板に顔をすり寄せてきた。

【裏葉】「わたくしの腰に、腕をお回しください」

あっけらかんとした言いようだったが、さすがにとまどう。

しかし、手段を選んでいる場合ではなかった。

言われたとおり、衣の上から右手をあてがう。

【裏葉】「ああ、柳也さま。この時をどんなに待ちかねたことか」

【柳也】「まだ夜明けまでは時がある。二人して楽しもうぞ」

【裏葉】「柳也さまぁ…」

鼻にかかったような声音が、なかなか色っぽい。

せっかくなので、すこしばかり尻をもんでみた。

ふにふにふに。

【裏葉】「ああ、おたわむれを」

【柳也】「よいではないか、よいではないか」

【裏葉】「ならばわたくしも…」

お返しとばかりに、袴(はかま)の上から急所をむんずとにぎられた。

【柳也】「うぐおあっ!」

【裏葉】「うふふふふ」

あでやかに笑いながら、袖を動かすふりをする裏葉。

その動きがぴたりと止まった。

【柳也】「…どうした?」

【裏葉】「………」

裏葉は俺の股間に視線を落としたまま、軽蔑しきった口調で言った。

【裏葉】「さては益体もない御逸物(ごいちもつ)」

救いようがないほど冷めた声が、部屋にがらんと響いた。

【柳也】「つ、勤めで疲れておるのだ、せり立たぬ晩もある」

俺は情けなく言い訳する。

【裏葉】「ああくちおしや。今宵はなすべきこともなさず、乳母(めのと)のようにただあやし寝とは」

【裏葉】「ああくちおしや、くちおしや」

衝立障子の向こうで、小さな舌打ちが聞こえた。

続いて、廊下を歩き去っていく気配。

【柳也】「…行ったらしいな」

【裏葉】「そうでございますね」

【柳也】「本気でにぎるなよ、本気で」

【裏葉】「それはこちらの言い分でございます」

【柳也】「念のため断っておくが、俺のはちゃんと立つ時は立つぞ」

【裏葉】「機会がありましたら拝見させていただきます」

【柳也】「………」

【裏葉】「………」

【柳也】「話を戻そう」

【裏葉】「はい」

【柳也】「あと半刻もしたら、俺は神奈を連れてここから逃げ出すつもりだ」

【裏葉】「わたくしもお供いたします」

【柳也】「だが、本当にいいんだな? つらい旅になるぞ」

【裏葉】「覚悟の上でございます」

普段と変わらない声音で言う。

だが、それがどれほどの覚悟か、見極める必要があった。

右手を太刀の柄にそえる。

鞘から刀身をすべらす。

裏葉の首筋に、刃を当てた。

【柳也】「見つかれば、こうなる」

俺の太刀は、儀仗用の平鞘太刀(ひらざやだち)とはちがう。

幾度となく人血をぬぐった刃だ。

【柳也】「わかるか? たやすく人は死ぬぞ」

いかに気丈な女でも、白刃を前にして強情を貫けるものではない。

だが、裏葉はのほほんと言った。

【裏葉】「かまいません」

【裏葉】「この身が朽ち果てようとも、わたくしは神奈さまにおつかえすると誓いました」

動揺はおろか、身じろぎひとつしない。

【裏葉】「神奈さまの御為なら、この命ささげようとも惜しくはございません」

【裏葉】「すこしでも、神奈さまのお心がやわらぐのであれば」

おだやかな顔もそのままに、澄んだ瞳だけが俺を圧倒する。

そばで笑っているだけの、無垢で愚鈍な女。

俺は今まで、裏葉のことをそんな風に見ていた。

刀を鞘におさめた。

このようにして負けをさとるのは、悪い気分ではなかった。

【柳也】「わかった。一緒に来てくれ」

裏葉は心から嬉しそうに笑った。

【裏葉】「これでずっと、神奈さまのおそばにいられるのですね」

【柳也】「ただし、荷は詰めなおせよ」

【裏葉】「やはりこれではいけませんか…」

うしろの大荷物を、未練ありげに振り向く。

【柳也】「身軽な衣だけでいい。表着(うわぎ)は一枚だけ、笠(かさ)もいらないからな」

【柳也】「それから水と干飯、塩、脯(ほじし)、薬があればなおいい」

しぶしぶながら、裏葉はうなずいた。

【柳也】「あとでもう一度迎えに来る。それまでに身支度をととのえておいてくれ」

【裏葉】「わかりました」

【柳也】「自分の着替えも忘れるなよ」

【裏葉】「あらあらまあまあ」

【裏葉】「ちっとも気づきませんでした」

のほほんと答える。

【柳也】「………」

やはり俺は、ただの役立たずを相棒にしてしまったのではないか?

さっきの盗み見の一件を思い出した。

明日になれば、社は噂で持ちきりだろう。

『夜這いをかけた衛門どの、衣も脱がずに女房と共寝』

【柳也】「………」

思わず頭を抱える。

男としてこれ以上恥ずかしいことはない。

【柳也】「どちらにしても、ここにはいられなくなったぞ」

【裏葉】「それはけっこうなことでございますね」

【柳也】「…本気で喜ばないでくれ、たのむから」

表に出ると、雨が降っていた。

まとわりつく湿気に、額からじくじくと汗が吹き出る。

【柳也】「……」

軒先で雨をさけながら、遠くにけむっている山ぎわに目を向ける。

目指す先は、その山を越えたさらに先にある。

ざああああああ…。

不意に雨足が強くなる。

【柳也】「…そろそろ刻限か」

私室に戻り、自分の荷を背負う。

入っているのは乾飯と薬のたぐい、そして幾冊かの文書。

闇と雨にまぎれ、もう一度神奈の寝所に上がった。

燈台の炎はまだ灯っていた。

だが、響いているいびきの質が前とはちがった。

【神奈】「ぐう…ぐう…ぐお…」

【柳也】「………」

…まあ、不安と興奮で眠れないよりはましだが。

【柳也】「神奈。起きろ」

耳元でささやいてみる。

【神奈】「…ぐう…すう…」

が、まったく起きようようとしない。

ゆさゆさ。

肩をゆすってみる。

うっとおしそうに払いのけただけで、丸くなってしまう。

【柳也】「…起きないか、こら」

むに。

頬をつまんでみる。

むにゅ~~~っ。

変にやわらかく、どこまででも伸びそうな気がする。

ぺちっ。

【柳也】「…痛て」

手をたたかれた。しかも、寝たまま。

敵ながら見事な攻撃だ。

と思ったら、今度は何やら寝言を言いはじめた。

【神奈】「…う…ん……」

【神奈】「ゆるして……たもれ」

【神奈】「入らぬ…入らぬというに…」

【神奈】「ゆるして……う…くっ…」

【神奈】「これ以上は…もう…」

【神奈】「もう…食べられぬ…」

むにゃむにゃ口を鳴らし、寝返りをうつ。

薄衣の裾をととのえるついでに、ぽりぽりと尻をかいている。

【柳也】「………」

【柳也】「尻かいてないで起きろおっ!」

ぽりぽりぽり。

逆側の尻をかいて応じる神奈。

【柳也】「かくなる上は…」

鼻をつまんでやることにした。

ふにっ。

しばらくそうしていると、なにやら苦しそうにもがきはじめた。

じたばた。

じたばたじたばた。

じたばたじたばたじたばた。

…ぐばっ!

よほど苦しかったのか、いきなり寝具をはねのけた。

枕から頭を上げ、上体を起こす。

童子のような瞳が開き、俺の方を向く。

【柳也】「おはよう」

指を離し、にこやかに挨拶する。

【神奈】「………」

状況がまったくわかっていないらしい。

ゆっくりと首をめぐらし、部屋を見渡す。

目前に俺の姿を見つける。

【神奈】「………」

ぱたり。

【柳也】「二度寝するなっ!」

また起きる。

部屋を見回す。

【神奈】「………」

ぱたり。

【柳也】「三度目も同じかっ!」

【裏葉】「柳也さま、手ぬるいですわ」

【柳也】「どぐわあああっ!」

【裏葉】「しっ、お声が高い」

【柳也】「裏葉、お前いつからそこにいたっ?」

【裏葉】「ほっぺたをむにっとおつまみになったあたりから」

【柳也】「俺が迎えに行くまで待ってろと言ったろ?」

【裏葉】「そろそろ刻限かと思いまして」

【裏葉】「それに、神奈さまおひとりでは着付けに手間がかかります」

【柳也】「言われてみればそうだな」

この期におよんでまだ眠り呆けている神奈を見下ろす。

【柳也】「とりあえず、こいつを起こしてからだ」

【裏葉】「奥の手がございます」

【柳也】「…どうすればいいんだ?」

裏葉は意味ありげに頬笑むと、神奈の頭の下にそっと両手をさし入れた。

ごいんっ。

鈍い音をたてて、神奈の頭が床にめりこんだ。

【神奈】「…痛いぞ。なにをするか」

枕を抜き取っただけだが、効果は絶大だった。

【裏葉】「神奈さまにあらせられましては、今朝もご機嫌うるわしゅう…」

【神奈】「これがうるわしい機嫌に見えるか?」

【裏葉】「はあ」

【神奈】「まったく、もうすこしやさしく起こせぬのか」

【裏葉】「では、次からは力の加減を工夫いたしまして…」

【神奈】「枕を抜くのをやめろと申しておるのだっ」

【柳也】「掛け合いならあとでいくらでも聞いてやるから、早く支度しろ」

ぶつぶつ不平をこぼしながらも、神奈は素直に用意をはじめた。

その手がとまり、俺をにらみつける。

【神奈】「…おまえはそこにいる気か?」

【柳也】「あたりまえだ」

【神奈】「余がこれからなにをするかわかっておるのか?」

薄衣の袖をばたばたと振りながら詰め寄る。

【柳也】「着替えだろ。見ててやるから早くしろ」

【神奈】「………」

げしっ。

何か硬い物が飛んできて、俺の脳天を直撃した。

【柳也】「~~~っ」

かなり本気で痛い。

額をさすりながら見ると、神奈の枕だった。

【柳也】「今、角がぶつかったぞ。ここんとこの角がげしっと」

【神奈】「出ていけ、この痴れ者がっ!」

人影がないのを確認してから、三人で雨の中に歩みでた。

物音を立てないよう、小走りで壁ぎわに寄る。

神奈と裏葉も見様見真似で続く。

二人とも雨をいとわないのは、俺としても心強い。

高く組まれた板塀を見上げながら、神奈が言った。

【神奈】「これをどのように越えるつもりなのだ?」

【柳也】「それぐらいは考えてあるさ」

目印をつけておいた所に、慎重に指をかける。

ぱきりと音を立て、一枚の羽目板が簡単に外れた。

【裏葉】「いつの間にこのような細工を?」

【柳也】「かなり前から準備しておいた。いつでも逃げられるように」

【神奈】「職務熱心なことよの」

【柳也】「ほっとけ」

板塀の向こうは深い山だ。

背の高い藪(やぶ)が、水気を含んだ闇とからみあっている。

【柳也】「神奈、先に出ろ。段があるから気をつけろよ」

段といっても二尺足らずだが、地面の具合はほとんどわからない。

【神奈】「これしき大したことはない。馬鹿にするでないぞ」

神奈がいきおいよく飛び降りた。

がさがさと藪が音を立て、神奈の姿を隠した。

【柳也】「裏葉、行け」

裏葉が穴の前に立った。

闇を流したような行く手の様子に、一瞬ためらう。

【柳也】「急げ」

【裏葉】「はい」

裏葉が向こうへと飛び降りた。

それから俺は、板塀を元通りに直した。

すこし離れた塀際にある立ち木をよじ登った。

音を立てないように注意して、塀ごしの闇に身をおどらせた。

背丈ほどの藪にはばまれ、いきなり視界がきかなくなった。

【神奈】「…猿(ましら)のようであったぞ」

神奈の声が、見たままの感想を伝えた。

【柳也】「ほかに言い方はないのか?」

【神奈】「ほめておるのだ。喜ぶがよい」

【柳也】「そりゃどうも」

適当に答えながら、腰の太刀をたしかめる。

【柳也】「ここからしばらく道がない。足下に気をつけろ」

【神奈】「これしきのところ、かるく踏み越え…うわっ」

…びちゃっ。

言っているそばから転んだらしい。

【裏葉】「あらあら。ご無事でございますか?」

【神奈】「これが無事に見えるか?」

【裏葉】「見えません、こうも暗いと」

【裏葉】「表着が汚れていなければいいのですが…」

【神奈】「…おまえは主より衣が大切か」

【裏葉】「あらもうこんなにびしょびしょに」

【神奈】「こらっ。妙なところを手探りするでないっ」

【裏葉】「神奈さまは悪戯がすぎます。今からこれでは先がもちませんわ」

【神奈】「だからさわるでないというに」

【裏葉】「ああやっぱり。袴もこんなに濡らして、はしたない」

【神奈】「やめい。くっ、くすぐったいではないか」

【裏葉】「神奈さまがそんなにお動きになるからでございます」

【神奈】「うくっ…もうやめろと申すに…くくくふっ」

【裏葉】「えいえいっ」

【神奈】「くっ…ふはっ…やめ…っはあっ」

【柳也】「…袴の裾を上げろ。裏葉もだ」

【裏葉】「まあ。二人一緒になんて柳也さまったらいやらしい」

【神奈】「まったく、鬼畜も同然よの」

【柳也】「…意味がわかって言ってるのか、おまえは」

【柳也】「歩きやすいように裾をまとめろと言ってるんだ」

【裏葉】「あらあらまあまあ」

【神奈】「うむ。もとよりそうすればよかったのだ」

【柳也】「俺のうしろから離れるな、行くぞ」

最初は急な斜面を下る。

俺が先頭をとり、濡れた下草を掻きわける。

すこしでも通りやすいよう草を左右に開き、ひたすらに斜面を下る。

そのあとに神奈が続く。

後尾(しんがり)は裏葉が受け持った。

半刻ほど歩いただろうか。

足下が登り坂にかわった。

社殿があった山から、別の山稜に移ったのだ。

うしろを振り返ると、神奈がじりじりと遅れだしていた。

水をふくんだ装束が重いのだろう。

うっとおしそうに、全身をひきずっている。

やがて、斜面から尾根筋に出た。

濡れた木々の間に、道らしきものがぼうっと浮かびあがっている。

猟師や樵(きこり)たちがのこした踏み跡だった。

【柳也】「ここからはすこしは楽だぞ」

神奈をはげますように言ったが、返事はなかった。

【柳也】「すこし休むか?」

【神奈】「…どうということはない。はように、進まぬか」

言葉とはうらはらに、疲労の色が濃い。

俺は頭上に視線をやった。

木々が枝をからませる向こうから、雨は絶え間なく降り続いている。

深い山中ということもあり、辺りの闇はねっとりと濃い。

その時だった。

【裏葉】「柳也さま」

裏葉が早口で呼びかけてきた。

【裏葉】「だれかが近くにいます」

一応様子をうかがってみるが、それらしき気配はない。

【柳也】「雨音だよ。心配ない…」

言い捨てかけて、俺もそれに気づいた。

木々の葉を通して降る雨音の向こう。

何か異質な音がかすかに混じっている。

【柳也】「頭を低くして、物音を立てるな」

【神奈】「追っ手か?」

【柳也】「静かにしてろ」

辺りを見回そうとした神奈の頭をあわてておさえる。

三人で息を殺し、ただじっと身をひそめる。

濡れた林間に雨音だけがふくらんでいく。

やがて、それは訪れた。

五、六人分ほどの足音が、道のない斜面を整然と下ってくる。

革と木板が擦れあう音さりさりという音から、具足をまとっているとわかる。

社殿からの追っ手だろうか?

それにしては早すぎるし、現れる方向が逆だ。

足音はすこし離れたところを通り過ぎ、気づかれることはなかった。

【柳也】「…動いていいぞ」

【神奈】「ふう。厄介なことよの」

軽口を言うが、舌の端にかすかな震えが覗いている。

【柳也】「よく黙っていられたな」

【神奈】「たかが足音であろ。何を取り乱すことがある?」

【裏葉】「山を下っていきましたね」

溜めていた息を吐き出しながら、裏葉が言った。

【柳也】「社の者たちではなかったな」

【裏葉】「なぜおわかりに?」

【柳也】「こんな山中で乱れずに行軍(かちだち)できるような奴らは、俺の部下にはいなかった」

俺の目が確かなら、さっきの兵たちは相当に場数を踏んでいる。

前触れなく出くわしていたら、やっかいなことになっていただろう。

そして、彼らが目指す場所はひとつしかありえなかった。

【裏葉】「どういうことでございましょう?」

【柳也】「俺が案じていたより、一晩早く事が起こったらしい」

裏葉が訊ね返してくる前に、俺は立ちあがった。

【柳也】「行くぞ」

休んで元気になったのか、荷のない神奈が真っ先に歩き出す。

【神奈】「はようせい。置いていくぞ」

【柳也】「そっちは元来た方なんだが」

【神奈】「…おっ、おぬしは冗談もわからんのか」

必死で言いつくろうが、かなり苦しい。

【神奈】「もちろんこちらだ。では行くぞっ」

くるりと方向を変えようとして、神奈が立ち止まった。

木々の幹を通して見える遠景に、一心に視線をそそいでいる。

【神奈】「柳也どの、あれは…」

神奈が指さしたその先。

黒々とした山肌の中に、炭火のように赤い光が見えた。

【柳也】「あのあたりには社殿以外に建物はない」

【神奈】「………」

神奈はただ、だまって光を見つめていた。

一生抜け出せないと思っていた檻(おり)の外に、神奈は立っている。

どんな心持ちになるものか、俺には見当もつかなかった。

【裏葉】「もうこのような遠くまで来たのですね」

俺は何も答えなかった。

光はだんだん強くなり、今はまるで野焼きのように赤々と照り映えている。

胸の内に苦いものがせり上がってくるのを感じた。

やがて、裏葉も違和感に気づいた。

【裏葉】「篝火(かがりび)を焚いているのでしょうか?」

【柳也】「篝火だけではあそこまで明るくならない」

【柳也】「燃えているんだ、社殿が」

神奈と裏葉が息を飲んだのがわかった。

【神奈】「たわけたことを申すでない!」

神奈が叫んだ。

しかし、俺の言葉が嘘ではないことは目前の光景が物語っていた。

恐らく社殿全体に火が回ったのだろう。

吹きあげる炎と煙が、山肌の一角を赤黒く染めあげていた。

【神奈】「それでは、社の者どもは…」

神奈がつぶやくように言った。

【柳也】「逃げ出してるさ。俺たちみたいにな」

答えたが、それは嘘だ。

さっき山を下っていった兵士たちは、社殿から逃げる者を待ち伏せるための隊だろう。

そこまで念入りに包囲するのは、事情を知る者を皆殺しにするため以外考えられない。

社殿の者たちは、もともと使い捨てにされる手筈だったのだ。

そう考えれば、すべての辻褄が合う。

【神奈】「そうか。みな、首尾よく逃げ出しているであろうな」

自分を無理矢理納得させるように、神奈が言った。

【裏葉】「なぜこのようなことを?」

裏葉の声音もかつてなかったほどに硬い。

【柳也】「社でなにが起こったのか、知られたくないんだろうな」

【神奈】「なにゆえにか?」

【柳也】「俺にもわからない」

そう答えるしかなかった。

どんな秘密があるにせよ、俺たちが取るべき道はひとつだった。

【柳也】「行くぞ」

【裏葉】「神奈さま、まいりましょう」

神奈はまだ社殿に見入っていた。

【裏葉】「神奈さま…」

【神奈】「今行く」

瞳から炎を振りはらい、俺の背中に続いた。

山中を一刻ほど歩いたころ。

行く手から、雨とはちがう水音が響いてきた。

ざああああ…

渓谷だった。

雨のせいでかなり増水していて、向こう岸には渡れそうになかった。

かと言って、引き返すわけにもいかない。

【裏葉】「どういたします?」

【柳也】「沢にそって進むしかないな。行くぞ」

俺が登りはじめると、裏葉と神奈も無言で続いた。

沢沿いでは濡れた岩が邪魔をし、軽々とはいかない。

まず神奈が遅れだし、続いて裏葉も遅れだす。

【柳也】「がんばれ。ここを越えれば楽になる」

呼びかけても返事はかえってこない。

神奈も裏葉も、ただ黙々と足を動かしている。

このまま沢沿いを進めば、いずれ神奈たちの体力が続かなくなる。

いずれ追いつかれる。

問題はそれから先だった。

社殿を襲った連中の目的は、まちがいなく神奈備命にある。

社殿を陥落させたあと、奴らは神奈備命をどのように処遇するつもりだったのか?

手あつく保護するつもりなのか、生け捕りにするつもりなのか。

それとも…

【裏葉】「柳也さま」

我に返ると、裏葉が俺のとなりまで登っていた。

【裏葉】「今、灯かりが見えました」

半身をねじるようにして、背後を指さす。

木々の幹を通して、松明(たいまつ)の火がちろちろと見え隠れしている。

【裏葉】「あちらにも」

【神奈】「向こうにも見えるぞ」

神奈は逆の山肌を指していた。

真っ黒な斜面のそこかしこに松明の光が散りばめられ、星のように見えた。

【柳也】「三十…いや、四十人はいるな」

松明をかかげて大勢で追ってくるのは、こちらが反撃するとは思っていない証拠だ。

つけいる隙があるとすれば、そこだった。

【柳也】「神奈、おまえはよほど人気があるんだな」

【神奈】「そんな人気など、おぬしにくれてやるわ」

苦しい息を整えながら、さも迷惑そうに言う。

【柳也】「なるほど、それがいいかもしれないな」

【神奈】「どういう意味か?」

それには答えず、俺は神奈に正面から向きなおった。

【柳也】「俺の言葉通りにすれば必ず生き残る」

【柳也】「…とりあえず、今はそう信じといてくれ」

【神奈】「そのようなことはもっと頼もしげに言わぬか」

【柳也】「根が正直なんでな」

【裏葉】「どうすればよろしいのでしょう?」

【柳也】「なにがあってもここを動くな」

予想していなかった答えなのだろう。神奈と裏葉が絶句した。

【柳也】「二人でその辺に座って、のんびりしていればいい」

【柳也】「できるだけ音を立てずにできればなおいい」

俺は事もなげに付け加えたが、それには理由がある。

こんな状況でじっと動かずにいるとしたら、その恐ろしさは想像を絶する。

逃げ回っている方が、はるかに気が楽なのだ。

【裏葉】「…柳也さまはどうなさるのですか?」

そう問われて、俺は裏葉に向きなおった。

【柳也】「神奈の表着の替えがあるよな?」

【裏葉】「はい、言いつけられましたとおり、一枚だけ持参しました」

【柳也】「悪いが出してくれ」

【神奈】「ここで着替えろと申すのか?」

【柳也】「いや、おまえが着るんじゃない」

【柳也】「俺が着るんだ」

急な渓谷を駈け降りる。

事は一刻を争う。

俺の動きが早ければ早いほど、神奈と裏葉を危険から遠ざけることができる。

濡れた岩や木の根に気をつけながら、ひたすら下流を目指す。

左手には神奈の表着を抱えている。

何に使うか教えていたら、裏葉は絶対に貸してくれなかっただろう。

やがて。

湿った風が、燈油と松脂(まつやに)が焼ける臭いを運んできた。

俺の前方、松明の明かりが煌々(こうこう)と見えた。

川面をはさんで両岸の斜面を、十名ほどが登ってくる。

木立に身を隠しながら、集団の先頭をうかがう。

むずかしいのはここからだった。

相手に近づきすぎない場所から、こちらの姿をちらりと見せなければならない。

神奈の表着を開き、頭を隠すように被(かぶ)る。

裏葉が選んだ派手な色合いが、今は逆にありがたかった。

土を踏みしめる足音が近づく。

深く息を吸った。

次の瞬間、俺は木々の隙間に身をおどらせた。

先頭を歩いていた兵士が、ぎくりと立ちどまった。

松明を高くかかげ、けげんそうに俺の方を見る。

そこで踵(きびす)を返し、梢の間に逃げこんだ。

【声】「いたぞ、女だ!」

興奮した怒鳴り声。

ヒュィ~~~~。

かん高い呼び子の音が、森中に響きわたった。

思惑通りだ。

木々を縫って斜面を疾走する。

重い足音が背後から迫ってくる。

最初は沢から離れる。

追っ手をできるだけ大勢引き寄せるためだ。

【声】「くそっ、存外足が早いぞ」

【声】「見失うな、急げ!」

狩り場で鹿でも追うように、大声で指示を伝えあっている。

【柳也】「…兵は手練(てだ)れでも、指揮がなってないな」

全力で逃げ回りながら、俺はそうほくそ笑んだ。

俺なら全員の松明を消させ、闇にまぎれて包囲網を張り直す。

暗闇で、このぬかるんだ足場だ。

具足(ぐそく)をつけた兵士では、兎一匹捕まえられないだろう。

目前に急な崖が現れた。

衣をかついだまま、足場をえらんで駈け登る。

ヒュィ~~~~。

また呼び子が響いた。

…ヒュィ~~~~。

どこか遠くで、別の呼び子がこたえた。

神奈と裏葉は大人しくしているだろうか?

ちらりとそう思ったが、今はたしかめる術がない。

【兵士】「女がいたぞ、こっちだ!」

容赦なく声が飛び、別の追っ手を呼び寄せる。

【柳也】「…そろそろだな」

俺は沢にとって返すことにした。

元来た斜面を転がるように下る。

追っ手の灯す松明が、時折肩越しに見えた。

ほどなく沢に着いた。

神奈と裏葉が待つ場所からはかなり下ったところだ。

上流では雨が強いのだろう、水音は勢いを増していた。

表着を地面に放った。

手近なところに、抱えるほどもある岩を見つけた。

腰を落として持ち上げ、水面めがけて放り投げた。

…じゃばっ!

濁流の真ん中に水柱が立ちあがった。

【柳也】「女が沢に落ちたぞ!」

間髪を入れずに、俺はそう叫んだ。

直上の崖からすぐに反応があった。

【声】「沢に落ちたらしい」

【声】「この真下から聞こえたぞ」

続いて、藪をかきわける音。

俺は神奈の表着を両手でひろいあげた。

【柳也】「悪いな、裏葉」

びりびりびり…

絹の布地を袖から乱暴に引き裂く。

帯のように細くなった布切れを、沢に近い木の枝にかけた。

残りの布は水面に流した。

こうしておけば、神奈はここから水に落ちたように見えるはずだ。

すべての細工を終え、沢沿いの崖をよじ登った。

岩陰に隠れ、聞き耳を立てる。

【声】「見ろ、衣の切れ端だ」

【声】「みなを集めよ、はようせい」

ヒュィ~~~~ヒュィ~~~~ヒュィ~~~~。

呼び子がひときわ大きく鳴り響いた。

【声】「者共、ここだ!」

【声】「…下流だ、ここより下流をくまなく探せ」

漏れ聞こえてくる指示に、俺はほくそ笑んだ。

今夜の雨で沢は増水している。

表着はまぎれもない神奈備命のものだ。

偽装とわかるまでに、うまくいけば数日は稼げる。

【柳也】「…ここまでは上手くいったな」

呼吸を整えながら、ひとりつぶやいた。

だがもうひとつ、済ませておきたいことがあった。

俺は腰を上げ、そっとその場を離れた。

慎重に気配を探りながら、ゆっくりと歩を進める。

やがて、数人の兵士が具足を鳴らし、坂を駈け下ってきた。

下草に身を隠し、これはやりすごした。

姿勢を低くしたまま、上流側に移動する。

すぐに別の兵士が歩いてくるのを見つけた。

単独で、松明も持っていない。

物音を立てないように注意して、兵士が通る道筋に先回りした。

木のうしろに身を置き、しずかに抜刀した。

そのまま息を潜める。

兵士は俺のことにはまったく気づいていない。

俺の元まであと十歩。

あと五歩。

脇を通り抜けようとした刹那。

俺は兵士の喉笛に刃をぴたりと押し当てた。

【兵士】「……!」

【柳也】「大声を出すな」

答えのかわりに、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。

【柳也】「太刀を捨てろ」

【兵士】「………」

【柳也】「太刀を捨てろ」

声音を変えずに、重ねて言う。

兵士の手から黒柄の太刀が離れ、地面にどさっと落ちた。

【柳也】「俺の問いに正直に答えろ。そうすれば生命(いのち)だけは助けてやる」

兵士がかすかにうなずいた。

【柳也】「なぜ神奈備命を追う?」

【兵士】「知らぬ。そう命じられたからだ」

【柳也】「神奈備命をどうするつもりだった?」

【兵士】「どうもせぬ。ただ捕らえよ、と」

【柳也】「だれの命で動いている?」

【兵士】「知らぬ」

【柳也】「隠すとためにならない」

柄に力をこめ、刃を肌に密着させる。

雨と泥で汚れた兵士の頬が、ぴくぴくと引きつった。

【兵士】「まっ、まことのことだ。われらは何も知らぬ」

【兵士】「ただ棟梁(とうりょう)は、逆賊を討つためだと申しておった」

【柳也】「どこから来た?」

【兵士】「吾妻から」

【柳也】「東国か…」

都よりはるか東に下ると、屈強な野武士をたばねた傭兵団があると聞く。

秘密裏に事を運ぶのには慣れた連中だ。

だとすれば、雑兵(ぞうひょう)がこれ以上の事情を知らされているとは思えなかった。

【柳也】「わかった」

俺は兵士の喉元から刃を離した。

そのまま刀を上段に振りかぶる。

兵士は一瞬、呆気にとられたようだった。

俺の方を不思議そうに覗きこんだあと、自分がどうなるのか悟った。

【柳也】「悪く思うなよ」

【柳也】「動かなければ、楽にあの世に行ける」

【兵士】「ひっ…」

腰が抜けたのか、べったりと地面に座りこむ。

【兵士】「たっ、助け…」

その首筋を狙いすまし、俺は刀を振り下ろした…

【声】「やめよっ!」

鋭い声がひらめいた。

俺はすんでのところで太刀筋を変えた。

目当てを失った切っ先が、地面に突きささった。

それを見た兵士が、兎のように駈けだした。

その手が転がっていた太刀に伸びる…

【柳也】「くっ…」

俺はとっさに刃を返し、兵士の側頭を薙ぎはらった。

ごっ。

鈍い音がした。

声にならない悲鳴をあげて、兵士が地面に転がった。

俺は太刀をかまえ直し、体ごと背後を振り返った。

そこに立っていたのは、神奈と裏葉だった。

俺は太刀を鞘におさめた。

【柳也】「なぜここにいる?」

神奈は答えず、別の問いを返してきた。

【神奈】「斬ったのか?」

【柳也】「峰打ちだ」

峰打ちといっても、頭を鉄棒で殴られたに等しい。

しばらくは起きあがれないはずだ。

すぐ近くの地面に、兵士の太刀が落ちていた。

俺はそれを、斜面の下に蹴り飛ばした。

腹の中が、怒りと不甲斐なさで煮えくりかえっていた。

この二人は、どうして俺の指示通りにしなかったのだ?

どうせ恐怖でその場にいられなかったのだろう。

山中を闇雲に歩くこの二人を、もしも追っ手が見つけていたら…

もしもそんなことになったら、すべては終わっていたはずだ。

【柳也】「裏葉、なぜあの場所を動いた?」

【裏葉】「もうしわけございません…」

【神奈】「余が命じたのだ。裏葉に咎はない」

きっぱりと言い放つ。

俺は神奈の様子がおかしいのに気づいた。

昏倒している兵士を見やると、神奈は俺に訊いた。

【神奈】「おぬしはこの者を殺(あや)めるつもりだったのか?」

【柳也】「そうしなければ、こっちの生命が危うくなる」

神奈に俺がつき従っていることを知られた以上、生かして帰すわけにはいかない。

俺にとっては当然の話だった。

だが、俺の答えを聞いたとたん、神奈の態度が一変した。

【神奈】「恥を知れ、この痴れ者がっ!」

夜目に怒気がわかるほどだった。

俺はただ困惑していた。

神奈が何を怒っているのかわからなかったからだ。

【神奈】「おぬしは先ほど、この者に『命だけは助けてやる』と申したであろ?」

【柳也】「聞いてたのか…」

【神奈】「おぬしは平気で嘘をつくのか?」

【神奈】「おぬしは平気で誓いを破るのか?」

【柳也】「それは時と場合による」

【神奈】「余との誓いも、時と場合によっては破ると申すか?」

【神奈】「おぬしは平気で…」

【神奈】「人を、殺めるのか?」

神奈はまっすぐに俺のことを見すえていた。

小さな唇がわなわなと震えていた。

【神奈】「そのような者に、余は護られとうない」

俺は自分のうかつさを知った。

『神奈備様が命、違えぬ事を誓約致し候』

それは俺にとって、命をかけた誓いのつもりだった。

しかし神奈にとっては、単なる誓い以上のものだったのかもしれない。

神奈は雨に濡れたまま、無言で俺のことを見ていた。

そしてこう言った。

【神奈】「余はおぬしに命ずる」

【神奈】「余を主(あるじ)とするかぎり、今後一切の殺生を許さぬ」

俺は泥に片膝をつき、太刀を鞘ごと面前に置いた。

【柳也】「承知つかまつりました」

深々と頭を下げる。

【神奈】「わかればよい」

こうして、二度目の儀式は終わった。

元通りに立ち上がる。

太刀を腰に差しなおしながら、俺は思わずつぶやいてしまった。

【柳也】「…ひとりも殺さずに、この先切り抜けられると思うか?」

我ながら未練がましいが、切実な問いではある。

【裏葉】「柳也さまでしたら、たやすいことのように思えます」

【柳也】「簡単に言うなよ」

【神奈】「おぬしは以前、刀で位を得たと申したであろ」

【神奈】「ぞんぶんに腕前をふるうがよい」

【柳也】「全部峰打ちでか?」

溜息まじりに答える。

【兵士】「うう…」

兵士がかすかにうめき声をあげた。

ようやく昏倒から覚めたようだった。

俺は兵士の具足を外し、紐でかたく手足を縛った。

ついでに、口に猿ぐつわをかませた。

【柳也】「運がよければ解けるだろう」

運が悪ければ解けずにこの場で死ぬかもしれないが、俺はそこまで面倒見きれない。

【柳也】「これで文句ないな?」

【神奈】「よい。大儀であった」

人の気苦労も知らずに、鷹揚(おうよう)に言う。

裏葉が身をかがめ、縛られた兵士の耳元でこう伝えた。

【裏葉】「このような不憫を強いて、もうしわけありません」

【裏葉】「わたくしどもはゆえあって先を急がねばなりません」

【裏葉】「あなたさまのお立場は推察いたしますが、わたくしどものことはお仲間には内密にしていただければ幸いと存じます」

【裏葉】「お約束いただけますか?」

兵士が当惑しているのが、手に取るようにわかった。

無理もない。

この状況で『お約束』などと言われるとは、こいつ自身も思っていなかっただろう。

神奈と裏葉に見つめられ、兵士はこくこくとうなずいた。

【神奈】「うむ。敵ながら殊勝(しゅしょう)な心がけ、褒めてつかわすぞ」

【裏葉】「それでは、ご無事をお祈りいたしております」

木立の間に、ちょうど人ひとりが隠れられるほどの窪地があった。

俺はそこに縛ったままの兵士を横たえ、枯れ枝をこんもりとかぶせた。

仲間が探しに来ても、遠目では見つけられないはずだ。

【神奈】「おぬしも早うせんか。まったく益体ない男よの」

【裏葉】「あら柳也さま、神奈さまの表着はどちらに?」

【柳也】「…捕虜の方が扱いがましだった気がするのは、俺の気のせいか?」

【神奈】「なにか申したか?」

【柳也】「いや、何でもない」

雨が止み、長い夜が明けた。

鳥の声が森にもどってきた。

高い枝の間から、朝の光が射しこんでくる。

たっぷりと水をふくんだ木々の幹が、清々しい香りを立てている。

高台に登り、辺りをうかがった。

青々とした山並みが、四方に広がっている。

追っ手の気配はどこにもなかった。

俺は斜面を下り、二人の元にもどった。

【柳也】「安心していいぞ。追っ手の姿はない」

【裏葉】「本当でございますか?」

【柳也】「ああ」

【裏葉】「首尾よく運んだようですね」

【神奈】「やれやれだの」

安心して気がゆるんだのか、二人ともその場にへたりこんでしまう。

無理もない。

二人とも、一晩で動ける限度をとうに超えてしまっている。

特に神奈は、夜明けからしゃべりもしなかった。

【柳也】「よし、ここらで休むか」

俺は見通しのよい木陰をえらび、木の根に座りこんだ。

これ幸いとばかりに、神奈もそれにならう。

【裏葉】「ああ、お召しものが…」

【神奈】「今さらなにを申すか」

着物は雨を吸い、裾には泥がこびりついてところどころ裂けていた。

裏葉にとっては目を覆いたくなるような、ひどいありさまなのだろう。

どこか遠くの幹で、熊蝉が鳴きはじめた。

暑くなりそうだった。

【神奈】「…おぬしらはなにか忘れておらんか?」

【裏葉】「なにかと申されますと?」

【柳也】「おお、そうだったな」

【柳也】「一晩歩いたご褒美だ。詠(うた)うなり舞うなり好きにしていいぞ」

【神奈】「ちがうわちがうわっ」

【神奈】「なにか食わせろと申しておるのだ」

【柳也】「身も蓋もない奴だな」

これだけ疲れきっていて、まだ食べる気力があるというのもすごい。

俺は苦笑いしながら、裏葉に言った。

【柳也】「水と干飯(ほしいい)を出してくれ」

【裏葉】「はい、ただいま」

旅装を解いた裏葉が、荷物から干飯を取り出した。

いつものようにまず味をたしかめ、竹筒と一緒に神奈に渡す。

【裏葉】「神奈さま、どうぞおめしあがりください」

【神奈】「うむ…」

竹筒をかたむけ、干飯に水をふくませる。

しばらくそのまま置いてから、口に入れる。

ぱくっ。

くにゅっくにゅっくにゅっくにゅっくにゅっ…

ごくん。

【神奈】「………」

【神奈】「…不味いぞ」

【柳也】「いらないなら俺が食うぞ」

【神奈】「だれがいらぬと申した。意地きたない奴よの」

俺の手をぴしっとたたく。

干飯をさらに水に浸し、不服そうにかじる。

俺と裏葉も食事をはじめた。

干飯が腹に落ちてから、自分が空腹だったことがわかる。

煮炊きができればましなものが作れるのだが、ここで火を使うのはまだ危険だ。

【神奈】「いつぞやに食った鮑(あわび)は美味だったの」

【裏葉】「鯣(するめ)も鯛も、大変おいしゅうございました」

【柳也】「…全部供え物だっただろ?」

【神奈】「祭壇で腐らせるぐらいなら、余の腹に納めるのが供養というものであろ」

【裏葉】「うふふふ」

【神奈】「なにがおかしい?」

【裏葉】「こうして三人して干飯などいただいておりますと、まるで…」

【柳也】「僻地に左遷され、くやし涙で飯を湿らせてるどこぞの公家さまみたいだな」

【裏葉】「たいそう風雅な喩えでございますね」

【柳也】「…だから冗談を真顔で返すのはやめろ」

無駄口をたたきながら、飯をつまんでは口に入れる。

【柳也】「神奈、食べたらすこしは寝とけよ」

話しかけたが、返答がなかった。

【柳也】「神奈?」

【神奈】「…くー」

干飯を食べかけたまま、すでに寝こけていた。

【柳也】「育ちはいいんじゃなかったのか?」

【裏葉】「お疲れのご様子でしたから、無理もありませんわ」

【裏葉】「神奈さま、こちらを枕に」

裏葉が神奈の体をささえるように導く。

神奈は素直に身をあずけ、頭を裏葉の膝に乗せた。

【裏葉】「…神奈さまのこんな安らかな寝顔、はじめて拝見いたしましたわ」

【柳也】「よく寝たかったら体を動かすのがいちばんさ」

【裏葉】「たしかに、そうでございますね」

【柳也】「裏葉も休んでおけよ。あまり寝てないだろ」

【裏葉】「でも、柳也さまもお疲れでいらっしゃるのでは…」

【柳也】「いいって、慣れてるから」

【裏葉】「戦(いくさ)に、ですか?」

それは裏葉の口から出ると、随分意外な言葉に思えた。

【柳也】「ああ、そういうことになるな」

軽く頷く。

裏葉は遠慮がちに俺のことを見つめていた。

【裏葉】「柳也さま、ひとつお訊ねしとうございます」

【柳也】「なんだ?」

【裏葉】「これからどちらに向かうおつもりですか?」

【柳也】「とりあえず、南に向かおうと思う」

【裏葉】「なぜでございますか?」

【柳也】「以前、社殿で噂を聞いたことがある」

【柳也】「ここより南の社に翼人の母子がいたらしい、そういう話だった」

【裏葉】「………」

裏葉はただ無言で、俺に先をうながした。

【柳也】「神奈は幼いころに母君と引き離されたのだと思う」

【柳也】「かりに、この話の子供が神奈だとすると…」

【裏葉】「神奈さまも母君も、かつてはその南の社に…」

【柳也】「断言はできないが、今のところ手がかりはそれだけだ」

それはただの噂にすぎない。

『南の社』が今でもあるのかわからない。

たとえ本当に翼人がいたとして、それが神奈の母君であるかもわからない。

わずかな手がかりでも、今は当たってみるしかない。

ただ…。

気になることがあった。

俺に噂をうちあけた衛士の、不安にゆがんだ顔。

『かつてここより南の社に、翼人の母子が囚われていたと聞いております』

そのあとに続いた言葉。

『母親は人心と交わり、悪鬼と成り果てた、と…』

【裏葉】「柳也さま、なにかご心配ごとでも?」

【柳也】「いや、何でもない」

あいまいに答えた。

【柳也】「…裏葉も寝とけ。俺の事はかまわないから」

【裏葉】「柳也さまこそ、お休みになってください」

【裏葉】「わたくしは沢筋で休む機会がありましたから」

【柳也】「そうだったな」

俺は太刀をかたわらに置き、木の根を枕に仰向けになった。

【柳也】「見張りはまかせる」

【柳也】「一刻たったら、起こしてくれ」

【裏葉】「はい、承知いたしました」

たのもしげな声を聞いてから、俺は目を閉じた。


★[ 山 路 ]/柳也★

それから数日の間、山中を進んだ。

追っ手の気配はまったくなかった。

神奈は沢に落ちて溺れ死んだと思ってくれていればいいが、さすがにそこまで楽観はできない。

亡骸(なきがら)が見つからない以上、執拗に探し続けるはずだ。

あの兵士が本隊に帰りつき、俺たちのことを報告するとも考えられる。

検問のことを考えると、街道を行くわけにはいかなかった。

たとえ追っ手はなくても、敵は別にあった。

盛夏だ。

辺り一面に蝉の合唱が響きわたっている。

あたりまえだが、暑い。

風はそよとも吹かず、真上にある太陽は地表をこがす。

木々の色にみずみずしさを与える陽光も、今は憎らしいかぎりだ。

【柳也】「暑いな…」

【裏葉】「柳也さま、しばしお待ちいただけますか」

うしろから裏葉が呼びかけてきた。

振り向くと、すこし間が開いている。

【柳也】「あ、すまない」

二人のそばに近寄ると、神奈の顔色が悪かった。

頬といい額といい、汗が滝のように出ている。

【柳也】「裏葉、水はあるか?」

裏葉は背から荷を降ろし、竹筒を振って中身をたしかめた。

【裏葉】「こちらにすこしございますが、あと一本は空のようです」

【柳也】「悪いが、汲んで来てくれないか? ここを下ればすぐに沢があるはずだ」

【裏葉】「かしこまりました」

俺に水の入った方の竹筒を渡すと、裏葉は沢筋に下りていった。

【柳也】「神奈、大丈夫か?」

【神奈】「話しかけるでない。頭にひびく…」

【柳也】「熱気にやられたな。ほら」

竹筒をひっくり返し、神奈の頭に水をかけてやった。

【神奈】「なにをするかっ」

【柳也】「体の熱を取るためだ」

【神奈】「一言ことわってからにしろ…」

文句をつける間もなく、神奈はへなへなとその場にへたりこんだ。

【神奈】「このまま溶けそうな心地がするぞ」

【裏葉】「ただいま戻りました」

竹筒をからからと鳴らして、裏葉が戻ってきた。

【裏葉】「神奈さま、お飲み下さいませ」

竹筒に自ら口をつけ、それから神奈に差し出す。

沢から汲んできたばかりの、冷たい水だ。

【神奈】「んくっんくっんくっ…はふ…」

一息で飲み干した。

裏葉はただ、神奈のことを心配げに見つめている。

その顔が、夏山の風景とどこか合っていない気がする。

【柳也】「…裏葉は暑くないのか?」

【裏葉】「先ほどから暑くてたまりません」

【柳也】「しかし、汗をかいてないように見えるぞ」

事実、裏葉の額には汗の玉ひとつ見受けられなかった。

【裏葉】「主の見ぬ間に汗を流し、涼しげな顔をたもつのが女官のつとめでございます」

【柳也】「そんな器用な真似ができるのは、おまえだけだと思うぞ」

【裏葉】「なにごとも修練でございます」

こともなげに笑う。

どうも裏葉が人ではないと思えてくるのは気のせいだろうか。

【裏葉】「ですが、神奈さまの暑気あたりはいかがいたしましょうか?」

【柳也】「いかがと言われてもなあ……」

【裏葉】「このままでは、神奈さまのご体調がととのうまで動けません」

【裏葉】「それに、まだ炎暑はなかばでございます。たびたびこのような事になっては…」

言葉を濁したが、裏葉の言いたいことはわかった。

もう一度神奈の様子を見た。

やはり暑苦しい。

薄物とはいえ、単衣(ひとえぎぬ)を数枚は重ねているはずだ。

それに、この辺りの道は、ふもとの村人が山仕事に使うものだ。

この装束でうろついていたら、あからさまに怪しい。

【柳也】「仕方ないな…」

【柳也】「裏葉、半刻ほどここで待ってろ」

【裏葉】「どうなさるのですか?」

【柳也】「ちょっと探し物だ」

立ちあがりかけて、ふとつけ加える。

【柳也】「裏葉、返品は受けつけないからな」

【裏葉】「はあ…」

裏葉の答えを聞かず、俺は山を駈け下りた。

きっかり半刻後。

俺は目的の物をたずさえて、二人の元へと戻った。

【神奈】「どこをほっつき歩いておった」

神奈の悪態で迎えられた。

さっきよりは調子がいいようだが、まだ顔が上気している。

【柳也】「ふもとに村があったんで、ちょっとな」

【神奈】「ことわりなく余から離れるでない」

【柳也】「大事な用だったんだ。大目に見てくれ…」

言いながら、俺は持っていた布の束をばさっと開いてみせた。

【神奈】「…なんだ、これは?」

【柳也】「知らないのか?」

【柳也】「これは着物といってな、袖を通して帯を締めて使うものだ」

【柳也】「当世では獣(けもの)以外はたいていこれを身につけているぞ」

【柳也】「身につけないのが礼儀の場合もあるが、どんな時かは内緒だ」

【神奈】「馬鹿にするでないっ」

【裏葉】「まあ、新しい御衣(おんぞ)でございますか?」

気の乗らない風の神奈をよそに、裏葉は目を輝かせている。

着物の生地を指でつまむと、はたと首をかしげた。

【裏葉】「生絹(すずし)にしては風合いがやけにごわごわと…」

【柳也】「麻(あさ)かなにかだろ」

【裏葉】「染めが朽葉色(くちばいろ)というのは、時節がらいささか不調法では?」

【柳也】「この期におよんでまだ色にこだわるか」

【裏葉】「重ねを工夫して涼しげに見せればよろしいのですね」

【柳也】「…重ねないでくれ、頼むから」

裏葉はまだまだ不満げだったが、顔には『早く着付けをしたい』と書いてあった。

思った通り、新しい衣の誘惑は強烈らしい。

【柳也】「裏葉の分もあるからな」

【裏葉】「あらあらまあまあ…」

【柳也】「二人で着替えてきてくれ。俺はここで見張っているから」

【裏葉】「承知いたしました」

【裏葉】「ささ、神奈さまこちらへ」

木々の奧に神奈を連れていこうとする。

【神奈】「余はこのままでよいっ」

【裏葉】「せっかく柳也さまがお持ちくださったのに、ご厚意を無為にされるのですか?」

【神奈】「余が命じたわけではないぞ」

【裏葉】「裏葉とて、神奈さまの喜ぶお顔を拝見したいのでございます」

【神奈】「余を着せ替えて喜ぶのはおまえだろうが!」

【裏葉】「そのような聞きわけのないことを申されますと…」

【神奈】「…むっ」

殺気を感じた神奈が逃げようとしたが、遅い。

【裏葉】「えいっ」

両袖で神奈の顔をおおい、そのままはがいじめにする。

裏葉の得意技だ。

【神奈】「むむーむむっ。むむ~むむむーむ…」

じたばたじたばた。

必死で暴れているが、こうなったら逃れられるはずはない。

【裏葉】「それでは柳也さま、しばしお待ちを」

【柳也】「ああ、しっぽりと楽しんでこいよ」

【裏葉】「お心づかいありがとうございます。では」

こうして神奈は、林の奧にずるずると引きずられていった。

【柳也】「…ほとんど山賊だな」

身ぐるみ剥がしたあとに別の衣を着付けるのだから、随分親切な賊ではあるが。

手持ち無沙汰なまま、梢の間から空を見上げる。

…平和だ。

【柳也】「まだか?」

【裏葉】「まだでございます」

まあそうだろうな。

………。

【柳也】「…まだか?」

【裏葉】「今しばらくお待ちを」

そんなに悩むことでもないだろうに。

……………。

【柳也】「……まだか?」

【裏葉】「あともう一息でございます」

お産じゃないんだから、そう気張らなくてもよさそうなものだが。

…………………。

【柳也】「おい裏葉、いいかげんに…」

怒鳴りかけた時、裏葉の声が困惑ぎみに答えた。

【裏葉】「ご用意はできているのですが、神奈さまが…」

【神奈】「このような格好などせぬ、できぬ、見せられぬっ」

神奈は必死で駄々をこねているようだった。

押し問答のすえ、裏葉の声が低くひびいた。

【裏葉】「そのような聞きわけのないことを申されますと…」

【裏葉】「えいっ」

【神奈】「むーむーむっ。むむむむ~む、むーむ…」

…結局またそれかい。

【裏葉】「お待たせいたしました」

涼しい顔の裏葉が、神奈をともなって現れた。

神奈は頬といわず耳といわず、顔中を真っ赤にしていた。

【神奈】「なぜこのような格好をせねばならんのだ」

粗末な袖をだらりと持ちあげ、情けない声を出す。

【裏葉】「よくお似合いでございますわ」

【柳也】「似合ってるぞ、神奈」

【神奈】「そ、そうか…?」

褒められれば、まんざらでもないらしい。

【柳也】「ああ。どこからどう見ても立派な田舎娘だ」

【柳也】「これで骨張っていてもごまかせるな」

ぽかっ。

とたんに鉄拳をくらった。

【神奈】「人が気にしておることをっ」

【裏葉】「神奈さまったら、おかしいんですよ」

【神奈】「馬鹿っ、それは申すでないっ」

【裏葉】「『似合いもしない衣姿は柳也どのに見せられぬ』などとおっしゃって」

【裏葉】「神奈さまは可愛らしいゆえ、どのような衣でも必ずお似合いになりますのに」

あまりに自信たっぷりに言いきるので、神奈の方が戸惑っている。

【柳也】「こっちの方が目立たないし、動きやすいだろ」

【柳也】「それに、すこしは涼しいはずだ」

【神奈】「………」

【柳也】「にらむなよ。そんなにいやか?」

【神奈】「……ぅ」

洗いざらしの袖を見下ろし、情けない声をあげる。

【柳也】「そういう簡素な着物の方が、おまえにはふさわしいと思うけどな」

【神奈】「どういう意味か」

【柳也】「かたくるしいのより、元気な方が可愛いってことさ」

【神奈】「…妙な好みだの」

【神奈】「仕方ないの。我慢して着てやるぞ」

神奈がしぶしぶうなずき、衣替えはどうやら落着したようだった。

【裏葉】「ところで柳也さま、こちらの衣はどちらで?」

【柳也】「…明かさないとだめか?」

裏葉はおだやかな笑顔のままで、じっと答えを待っている。

真相を知っていて、あえて黙っているという顔つきだ。

【柳也】「川辺で篭(かご)に入れてあったのを、こっそりとな」

【神奈】「盗ったのかっ」

【柳也】「代わりに銭を置いてきたぞ」

この時勢に銭などもらって、うれしいかは別だが。

【裏葉】「失礼ながら、神奈さまの衣はすこしばかり丈が短うございます」

【柳也】「あつらえたわけじゃないからな、我慢してくれ」

【裏葉】「わたくしの衣は、逆にすこし長うございます」

【裏葉】「これは母子が身につけていた衣ではないでしょうか」

【神奈】「…余は童女(わらわめ)の装束をまとっておると申すのだな?」

【裏葉】「わたくしは母御(ははご)のものでございますね」

うれしそうに目を細める。

神奈は怒ったようなてれくさいような、なんとも複雑な顔をしていた。

【裏葉】「…そうそう、神奈さまご覧くださいな」

【裏葉】「このようなものが、衣の間にはさまっておりました」

裏葉が取り出したのは、丸く縫った布の玉だった。

【裏葉】「きっと、洗い物をする時にまぎれたのでございましょう」

全部で三つあるそれを、神奈に手渡す。

【神奈】「なんだ、これは?」

三つの布玉をぐにゅぐにゅと揉みながら、不思議そうに首をかしげる。

【柳也】「俺に訊かれても、わからないぞ」

裏葉はただ微笑んでいる。

種明かしをしたくてうずうずしている感じだ。

【裏葉】「お手玉でございましょうね」

【神奈】「おてだま、とな?」

【裏葉】「やんごとなきご身分のお子が、いしなどりをするのに用います」

【神奈】「いしなどりとはなんだ?」

【柳也】「女童(めらわ)のする遊びだ」

そのぐらいなら俺も知っている。

地面に石を置き、いくつ宙に投げ上げられるかを競うものだ。

【柳也】「なるほど、布でつくれば怪我もしないってわけだな」

神奈がもてあそぶお手玉を、俺も横から眺めた。

端切れらしい粗末な布には、何度も縫いなおした跡があった。

『貴族の遊び道具』という裏葉の説明とちぐはぐで、可笑しかった。

【裏葉】「どのような身分の者にも、子は宝でございましょうから」

俺の顔に気づき、にっこりと笑う。

【神奈】「これにはなにが入っておるのだ?」

【裏葉】「貝殻か小豆(あずき)のたぐいでございましょう」

【神奈】「ほお、小豆か…」

お手玉のひとつを顔の前に持ちあげ、しげしげと見つめる。

【神奈】「どこからも取り出せぬぞ」

【柳也】「取り出してどうする?」

【神奈】「取り出さなければ、食えぬではないか」

【柳也】「………」

【神奈】「なぜだまる?」

【柳也】「いや、なんでもない」

【裏葉】「神奈さま、お貸しくださいますか?」

神奈からお手玉を受け取り、右手の中で具合をととのえる。

【裏葉】「このように持ちまして…」

一つずつ左手に投げる。

ひょい…。

 ひょい…。

左手で受け取ったそれは、次が届く前に空中に投げ上げられる。

三つのお手玉がきれいな輪をえがいて舞う。

神奈は口をあんぐりと開けて、その様子に見入っていた。

ひとしきり見せたあと、裏葉はお手玉を両手で受け止めた。

【柳也】「…お見事」

【裏葉】「恐れ入ります」

神奈はと見ると、なにやら固まっている。

【神奈】「…余にもできるか?」

どうやらそれが訊きたかったらしい。

【柳也】「そりゃ、やってみなけりゃわからないだろ」

【裏葉】「すこしばかり習えば、必ずお上手になりますとも」

例によって、裏葉が根拠なく請け負う。

【神奈】「まことにすこしばかりでよいのか?」

【裏葉】「はい」

【神奈】「まことにまことに、すこしばかりでよいのだな?」

【裏葉】「まことにまことでございます」

【神奈】「まことにまことにまことにまことに…」

【裏葉】「くどいですわ、神奈さま」

【神奈】「………」

今までにないぐらい、真剣に考えこんでいる。

【神奈】「…では、今すぐ余に教えるがよい」

【裏葉】「今からでございますか?」

こまったように俺の方をうかがう。

神奈の暑気あたりと着物の調達で、すでに日も傾きかけている。

今から出立しても、大した距離は進めないだろう。

【柳也】「いいさ。今日はここで泊まりにしよう」

【柳也】「みんな疲れがたまってるしな。休める時は休んでおこう」

【裏葉】「では神奈さま、これを」

【神奈】「うむ」

神妙な顔で、お手玉を受け取る。

【裏葉】「お座りになった方が楽でございます」

【神奈】「おお、そうか」

お手玉の習いがはじまった。

【裏葉】「まずは初歩の初歩でございます」

【神奈】「ふむふむ…」

【裏葉】「お手玉ふたつをこのように両手に持ちまして…」

真面目くさった裏葉の口上を聞きながら、俺はすこし離れた木の根に腰かけた。

荷袋をほどき、包みを取り出した。

油紙の中身は、幾巻かの書物だ。

翼人に関した資料のたぐいを集めろと命じられた時、密かに抜いておいたものだ。

社殿にあった書物は、これ以外はすべて焼かれてしまっただろう。

最初に手に取ったのは、古ぼけた巻物だった。

中は難解で、おいそれと読めるものではなかった。

次に手に取った冊子には、表紙にこう書かれていた。

『翼伐記』

表現のしにくい感情が広がった。

とりあえず、平易な部分を拾い読みした。

どうやら、過去にも神奈のように幽閉された翼人がいたと書かれているらしい。

数頁飛ばすと、別の記述が目に飛びこんできた。

『羽の者、禍(わざわい)を招く』

『禍津日(まがつひ)の神、天雲の向伏す極みまで果つ』

翼人が災難を引き起こす神で、地上を消し去るという意味だ。

俺の知らないはるか昔にそのような事実のあったことが、こまかな字で書かれていた。

だが、それが真実であるかはわからない。

【柳也】「ふむ…」

まあ、おいおい読み解いていくしかないか。

冊子を閉じ、大きく伸びをした。

慣れないことをしたので、目元がじんとしている。

俺は立ちあがって、神奈たちに近づいた。

【柳也】「どうだ、上達したか?」

お手玉をにぎったまま、神奈がびくっと振り向いた。

そのぐらい熱中していたということだろう。

対する裏葉は、なぜか疲れた顔だった。

【神奈】「こっ、このぐらいたやすいこと」

【柳也】「大きく出たな」

【柳也】「なら、ひとつ腕前を見せてくれよ」

【神奈】「………」

【柳也】「どうした?」

【神奈】「…余の腕前を見たいと申すのだな?」

【柳也】「そうだって言ってるだろ」

【神奈】「………」

【神奈】「…よかろう」

【神奈】「おぬしは余の忠僕ゆえ、特に見せてつかわそう」

【神奈】「おぬしはまことに幸せ者よの」

【神奈】「余の手さばきを見て腰を抜かすでないぞ」

【神奈】「三つの玉が疾風(はやて)のごとくぶんぶんぶんと宙を舞うぞ」

【神奈】「そもそもお手玉というものは…」

【柳也】「能書きはいいから早くやれ」

お手玉を右手に揃え、ものすごい形相で黙りこむ。

【神奈】「………」

精神を統一しているらしい。

なにやら嫌な脂汗をかいているようにも見えるが、名人ゆえの気取りというやつだろう。

【神奈】「えいっ…」

裂帛(れっぱく)の気合いと共に、ひとつ目が宙を舞う。

ぶんっ。

お手玉は俺の頭を越えて、足下にぽとりと落ちた。

拾いあげて、神奈に手渡す。

【神奈】「ちと手元が狂っただけだ」

【神奈】「次はきちんとするからよく見ておれ」

【柳也】「はいはい」

【神奈】「それっ…」

ぶんぶんっ。

【柳也】「…すごいな。今度は二つともか」

もう一度、拾い集めて渡した。

神奈は黙って受け取る。

【裏葉】「力まかせではいけません。ちょうど目の高さほどまで…」

【神奈】「わかっておるっ」

【神奈】「やあっ…」

ぶんぶんぶんっ。

三つのお手玉は、はるか向こうの木の幹に次々と当たって落ちた。

【柳也】「………」

もはや感想を言う気力もない。

神奈は自分で立ちあがり、無言のままお手玉を取ってきた。

【神奈】「習うて間もないのだ。このぐらいできれば重畳(ちょうじょう)よの」

【柳也】「自分で言うなっ」

すでに『初心者だから』などという言い訳ですまされる域ではなかった。

【柳也】「なんというか…」

【裏葉】「…あきれるほどにお下手でございます」

教えている間に疲れ果てたのだろう。血も涙もない声音で裏葉が言った。

【神奈】「やかましいっ」

【神奈】「すこし習えばすぐにできると申したのは裏葉ではないかっ」

懲りずにお手玉を両手でつかむ。

【柳也】「ひとつから練習した方がいいんじゃないのか?」

【裏葉】「何度もそう申しましたのに、聞き入れていただけません」

【神奈】「やかましいやかましいやかましいっ!」

【神奈】「だいたい、この玉が悪いのだ」

【神奈】「余の手には大きすぎるぞ」

【裏葉】「これは童(わらわ)が使うものですので、そのようなことはございません」

【神奈】「では小さすぎるのだ」

【裏葉】「大きさはちょうどいい按配です」

【神奈】「では…」

【裏葉】「重すぎも軽すぎも硬すぎも柔らかすぎも甘すぎも辛すぎもいたしません」

【神奈】「ではなぜ上手くいかぬのだ」

『下手だから』としか言いようがないが、ここは黙っておくのが吉だろう。

【神奈】「あ~もうよいっ。おぬしらは下がれ、気が散るっ」

言いながら、またもお手玉をかまえる。

【柳也】「裏葉、行くぞ」

【裏葉】「はい、でも…」

未練ありげな裏葉の袖を引き、神奈から離れた。

【裏葉】「ああ神奈さまおいたわしや」

【裏葉】「この裏葉が不甲斐ないばっかりに~」

主に暇(いとま)を言い渡され、裏葉はおろおろとするばかりだ。

【柳也】「不甲斐ないんじゃなくて、お前が上手すぎるんだよ」

【裏葉】「はあ…」

【柳也】「名人ってのは、案外教え下手なものだからな」

本当のことを言えば、神奈が名人級の教わり下手なのだが。

【柳也】「とにかく、飽きるまでひとりでやらせるのがいいだろ」

俺はそう言い聞かせ、裏葉もやっと納得したようだった。

【柳也】「俺はちょっと出かけてくるよ」

【裏葉】「どちらに?」

【柳也】「村の近くの川に梁(やな)が仕掛けてあったんだ。運がよければ何か捕れるかもしれない」

【裏葉】「その梁はどなたのものでしょう?」

【柳也】「魚はだれのものでもないさ」

【裏葉】「…たしかに、そうでございますね」

【裏葉】「それでは、わたくしは神奈さまの表着をつくろうことにいたします」

【柳也】「もうぼろぼろだろ。ここで捨ててもいいんだが」

【裏葉】「…なっなっ、なんという不敬をっ!」

【柳也】「ああすまん。好きにしていいから」

獲物を持って戻った時には、もう日が暮れかけていた。

林間は別の世界のようだった。

年月をへた木々の肌で、刻々と光が褪せていく。

山鳥も蝉も、今は鳴りをひそめている。

やけに静かだった。

己の身が何時(いつ)にあるのか、わからないような心地がした。

やがて。

行く手から少女の声がした。

【神奈】「うがあっ。なぜできぬのだっ…」

【柳也】「………」

幽玄もなにもあったもんじゃないな。

【柳也】「戻ったぞ」

【裏葉】「お帰りなさいませ」

裏葉は困り果てた様子で、神奈を眺めていた。

【柳也】「ずっとやってたのか?」

【裏葉】「ええ…。お止めしても、お聞きくださらないのです」

【裏葉】「社殿では童遊びなど、される機会がありませんでしたので」

その瞳には、母御(ははご)のようなやさしさが滲んでいるように見えた。

俺は持っていた獲物を裏葉に渡した。

わらひもを鰓(えら)に通した川魚、全部で八尾だ。

【裏葉】「山女(やまめ)でございますね」

【裏葉】「まあまあ。どれも丸丸と肥えて…」

【柳也】「塩をたっぷり振って、焼いてやってくれ」

【裏葉】「よろしいのでございますか?」

塩は体に必要なものだが、旅先では手に入れにくい。

また、追っ手のことを考えて、これまで焚き火を許したことはなかった。

【柳也】「塩気のない川魚ほど味気ないものはないからな」

【柳也】「焚火は炎を小さく、松のたぐいを焚きつけないようにしてくれ」

【裏葉】「承知いたしました」

裏葉は嬉々として火をおこしにかかった。

社を出てからずっと、食事に羮(あつもの)が出せないのを気にしていたのだ。

【柳也】「…神奈、夕餉(ゆうけ)はどうするんだ?」

【神奈】「勝手に食うておれっ! 余は忙しい!」

あいかわらずの調子でどなる。

神奈がここまで根気強いとは思っていなかった。

というより、負けずぎらいなだけか。

【柳也】「…気のすむまでさせるか」

【裏葉】「ですが、めしあがっていただかなければ、お身体にさわります」

【柳也】「匂いが立てばすぐに飛んでくるさ」

【裏葉】「…うふふ。そうでございますね」

【柳也】「神奈は食い意地がはってるからな」

【神奈】「やかましいっ! 聞こえておるぞ!」

【柳也】「怒ると手元が定まらないぞ」

【神奈】「おぬしが妙なことを申すからであろっ!」

火打石が打ちあわされ、薪に火が移った。

裏葉は小刀をたくみに使って魚を下ごしらえし、枯れ枝から串を切り出した。

串を山女に通し、炎の周りに射す。

魚の脂(あぶら)が焚き火にじゅうじゅうと落ち、香ばしい匂いがただよう。

案の定、神奈がのこのことやって来た。

【柳也】「お手玉はもうおわりか?」

【神奈】「暗くて手元がよう見えぬ。続きは明日にする」

すでに気持ちは魚の方に行っているようだ。

【神奈】「ふむ。今宵の献立は鯛か」

【神奈】「またずいぶんと痩せこけたやつよの」

【柳也】「こんな長細い鯛があるか。山女だ山女」

【神奈】「どちらでもよい。はように支度せい」

【裏葉】「こちらなど、ほどよく焼きあがってございます」

いちばん大きな魚を抜き、そっと身をちぎろうとする。

そこで俺は裏葉を止めた。

【柳也】「なあ、裏葉」

【裏葉】「はい?」

【柳也】「社殿じゃないんだから、もう毒見はしなくていいだろ」

【裏葉】「しかしながら、これがわたくしの務めです」

【柳也】「まあ、気持ちはわかるけどな」

【柳也】「これからはできるだけ、何事も神奈自身にさせるようにしたい」

俺が言うと、神奈も身を乗り出してきた。

【神奈】「余もそう思っておったところよ」

【神奈】「このようにちっぽけな魚では、余の食べるところがなくなってしまうであろ」

【柳也】「………」

裏葉はしばらく黙っていたが、手つかずの魚を神奈に差し出した。

【裏葉】「それでは神奈さま、こちらを」

【神奈】「うむ。大儀であった」

ひったくるようにして受け取り、いきなり頭から頬張ろうとする。

【柳也】「骨ごと食うなよ」

【神奈】「わかっておるわ」

はぐっ。

腹の方から豪快に食いついた。

熱かったのか、少し眉をひそめる。

はぐはぐはぐっ、ごくん。

【柳也】「川魚も美味いもんだろ?」

感想を言う暇も惜しいのだろう。神奈は無言で山女にむしゃぶりついている。

【柳也】「俺たちも食おう」

【裏葉】「はい」

三人で車座になり、焼いたばかりの山女に舌を鳴らす。

真ん中では温かな炎がゆらゆらと踊っている。

【裏葉】「柳也さま」

【柳也】「なんだ?」

【裏葉】「このように山辺(やまのべ)で炎を囲んでおりますと、まるで…」

【柳也】「姫君をさらって野に逃げたはいいが、あまりの世間知らずぶりに『やるんじゃなかった』と後悔してるどこぞの色男みたいだな」

【裏葉】「たいそう野趣あふるるたとえでございますね」

【柳也】「…たとえというか、ほとんどそのままだけどな」

【神奈】「裏葉、おかわりを持て」

【裏葉】「はい、ただいま」

【柳也】「食いたい串を勝手に取っていいぞ」

【神奈】「まことか? では…」

ひょいひょいひょいひょいひょいっ。

【柳也】「…一度に全部取るのはやめろ」

【神奈】「まったくおぬしは意地汚いの」

【柳也】「それはこっちの台詞だっ!」

社殿を脱出して、十日がたった。

あいかわらず、街道をさけて山中を進んでいた。

暑さは増すばかりだ。

まとまった雨もなく、飲み水を確保するのも一苦労だった。

日中に休息をとり、涼しくなってから月の入りまで行動するようにした。

それでも、旅は順調だった。

神奈と裏葉が野宿に慣れてきたこともある。

神奈にいたっては、寝ることと食べることは社殿にいた時より快調だ。

追われているという意識はすでに乏しい。

午後の休憩中。

俺は社殿から持ち出した地図を広げていた。

書きこんであるのは主要な街道と河川、それに寺社荘園ぐらいだ。

土地勘のない場所では、地形を読むのもむずかしい。

【柳也】「ふむ…」

【神奈】「なにをむずかしい顔をしておるのだ?」

【柳也】「このまま進むと、川につきあたる」

【神奈】「渡ればよいではないか」

こともなげに言うが、この辺りの渓谷は案外深そうだ。

【柳也】「川上に迂回するか」

【柳也】「それとも、街道に出るかだな」

思案していると、横から裏葉が口をはさんだ。

【裏葉】「街道を進むのがよろしいかと」

【柳也】「川を越えれば国衙(こくが)が近い。街道は人目が多いはずだ」

【裏葉】「なればこそでございます」

意味ありげに裏葉が答えた。

【裏葉】「人々が集まるところなれば、うわさもはなやかでしょう」

【柳也】「…それもそうだな」

旅の目的は、逃げることから探すことに変わっていた。

問題は、神奈の母君の居所だった。

頼りはただ、『ここより南の社』という言葉だけなのだ。

女子供の徒歩(かち)とはいえ、もう十日も南に進んでいる。

この辺りで情報を集める必要があった。

【神奈】「決まりだ。街道に降りるぞ」

【柳也】「…だからおまえが言うなっての」

【裏葉】「そうと決まれば、出立いたしましょう」

俺が荷を背負いなおした時には、すっかり準備はととのっていた。

街道ぞいは、今までになくにぎわっていた。

さまざまな装束の人々が、老若男女を問わずひっきりなしに行き来している。

【神奈】「やけにうるさいの」

【裏葉】「市が立っておりますね」

【神奈】「市とはなんだ?」

【裏葉】「品々を取り引きする場でございます」

【神奈】「ほお…」

神奈は瞳をいっぱいに見開き、きょろきょろと辺りを見渡している。

【裏葉】「随分と大きな市のようですね」

【柳也】「そうだな」

都より下ってくる産物が、主に商われているらしい。

ただの道ぞいにこれほどの市が立つというのは、意外な感じだった。

【神奈】「見よ見よっ。土器(かわらけ)が山をなしておるぞ」

【柳也】「待て」

我を忘れて駈け寄ろうとした神奈の襟首を、すんでのところで捕まえた。

【柳也】「いいか、大声をあげたりさわいだりするなよ」

釘を刺すと、大真面目にうなずいた。

【神奈】「わかっておる。余もそこまでおろかではないぞ…」

言ったとたんに、別の物に気を取られる。

【神奈】「裏葉、あれは何だ?」

【裏葉】「鳥梅と申しまして、疝気(せんき)のお薬でございます」

【裏葉】「以前、神奈さまがおいやがりになったものですわ」

【神奈】「あの途方もなく酸っぱいやつだな」

【神奈】「それは何だ?」

【裏葉】「鮒鮨(ふなずし)でございますね」

【裏葉】「以前神奈さまがつまみ食いされて、ひどくお中(あ)たりになったものです」

【神奈】「あの時は死ぬかと思うたぞ」

【神奈】「では、これは?」

【裏葉】「白酒(しろざさ)でございましょうか」

【裏葉】「以前神奈さまが度を超してめしあがり、たいそうお暴れになったあげくに…」

【神奈】「…いちいちつまらぬことを申さんでよいっ」

俺はうんざりしながら、うしろを歩いていた。

やかましいことこの上ない。

【柳也】「神奈。俺がさっき、なんて言ったか覚えてるか?」

【神奈】「『大声をあげるな、さわぐな』であろ?」

【柳也】「わかってるならすこしは黙れ」

【裏葉】「よろしいではございませんか」

涼しい顔で裏葉が言う。

【裏葉】「これほどの活気があれば、少々の騒ぎなどかき消されます」

【神奈】「裏葉、裏葉っ。なんだこれは? まことに珍奇な形をしておるぞっ」

【裏葉】「瓢箪(ひさご)ですわ。酒などを入れておくのに用います」

売り手の市女(いちめ)が、うさんくさそうな目で神奈を見ている。

【柳也】「とにかく来い」

俺は強引に神奈をひっぱって、店の前から移動させた。

【神奈】「そう急(せ)くでない。痛いであろ」

【柳也】「首に縄でもつけてやろうか…」

【神奈】「おぬし、口やかましいぞ。すこしは楽しまぬか」

【柳也】「あのなあ、俺たちはお尋ね者なんだっての」

【神奈】「この人混みで、だれが余を見わけるというのか?」

【神奈】「身は骨張っておるし、どこから見ても村娘のようであろ」

【柳也】「どうでもいいことを根に持つなよ」

【柳也】「わかった、俺が悪かったよ。おまえは可愛い。壮絶に凄絶に愛らしい」

【柳也】「目立って目立ってしょうがないぐらい愛らしいから、大人しくしててくれ」

【神奈】「…いつものことだが、おぬしの言葉には誠意というものがないの」

【柳也】「とにかくだ、ここで目立つ行動はこまる」

【柳也】「この人出なら、たしかに俺たちも目立たない」

【柳也】「でもな、それは忍び寄ってくる敵の姿も見わけにくいってことだ」

【柳也】「もしも不意打ちを食らったら、ひとたまりもない」

【柳也】「裏葉や俺が追っ手に討たれる姿、見たくないだろ?」

【神奈】「おいそこの者、この白い棒杭(ぼうぐい)はなんと申すのだ?」

【柳也】「…聞いちゃいねーし」

【売り子】「清白(すずしろ)だよ」

【神奈】「でたらめを申すでないぞ、無礼者」

【神奈】「すずしろといえば、かゆに入れる草のこと。この図体では椀におさまらんぞ」

【売り子】「…あんた、どこの御殿の姫さまだね?」

【神奈】「ここより十日も歩いた山の…ふむぐっ」

【柳也】「いやこの娘、すこしばかり頭(おつむ)が足らず難儀しておるのだ」

【売り子】「それはお気の毒なことで」

【神奈】「むむふむ~。ふむむむふむ~ふむむむ…」

頭の足りない娘を笑顔ではがいじめにしたまま、そそくさとその場を離れる。

【神奈】「…ぷはっ」

【神奈】「だれの頭が足りんと申すかっ!」

【柳也】「おまえ以外にだれがいるんだ」

【柳也】「裏葉も気をつかってくれ…」

言いかけて気づくと、通りすがりの見知らぬ親爺に話しかけていた。

【柳也】「…いやしねーし」

きょろきょろと周りを見わたすが、裏葉らしい人影は見あたらない。

名が知れわたっている恐れもあるから、呼びかけてみるわけにもいかない。

【神奈】「裏葉ーっ、どこにおるかーっ! 裏葉ーっ!」

【柳也】「だああっ、やめろおっ!」

【神奈】「むがーっ」

じたばたじたばたじたばた。

【柳也】「あばれるなっ」

【神奈】「うーっ」

がぶっ。

【柳也】「いててっ、噛むな噛むなっ!」

まさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)である。

【神奈】「…おぬしが狼藉(ろうぜき)ばかり働くからであろっ」

【柳也】「いいからおまえは二度と口を開くなっ!」

【柳也】「暮れてきたな…」

溜息まじりに、俺はつぶやいた。

情報を集めるつもりが、神奈のお守りで半日おわってしまった。

裏葉はまだ現れない。

どうせそこいらで、新しい衣でも物色しているのだろう。

心配はしていないが、そろそろ合流しなければ夜になってしまう。

あれだけにぎやかだった市も、今は閑散としている。

市女たちが店をたたみ、ぽつりぽつりと去っていく。

夕陽が山際にせまり、喧噪も褪せていく。

昼間の熱気を惜しむように、蜩(ひぐらし)が澄んだ声をひびかせている…

…はずなのだが、聞こえるのは不機嫌そうな雄鶏のつぶやきばかりだ。

【鶏】「こっこっこっ…」

【神奈】「おぬしのように不細工な鳥など、聞いたこともないぞ」

【鶏】「こっこっこっこっ」

【神奈】「そのように気ぜわしいさえずりでは、売れ残るのも道理というもの」

【鶏】「こっこっこっこっこっ」

【神奈】「時鳥(ほととぎす)も仏法僧(ぶっぽうそう)ももっとおかしげに鳴くぞ」

【鶏】「こっこっこっこっくけ~っ」

ばたばたばた、かぷっ。

【神奈】「痛いぞ、指を噛むでない」

【鶏】「くけ~っ」

【神奈】「こら、つつくなと申すに」

【鶏】「くけ~こけ~っ」

【神奈】「むかっ。鳥獣のぶんざいで余をせせら笑うとは無礼千万」

【神奈】「そのふざけた尾羽(おばね)、根こそぎひん抜いてくれようぞ」

【鶏】「こけこっこ~~~~~~~~~~~っ」

羽のある者同士、楽しげに語らっている。

【店主】「頼むからやめてくれ。そいつはうちでいちばん上物の尾長なんだ」

店の主もたいそう嬉しそうだ。

『頭の弱い可哀相な娘だ』と言ってはあるが、我慢もそろそろ限度だろう。

【柳也】「こら、いいかげんにしろ」

神奈を鶏からひっぺがし、また歩きはじめる。

【神奈】「次はどれを見るのだ?」

【柳也】「次なんてない。裏葉を探してから…」

言いかけて、か細い声が呼んでいるのに気づいた。

【声】「…お武家さま」

痩せこけた乞食が、道端にうずくまるようにしている。

【声】「お武家さま、どうかお慈悲でございます」

…太刀を履いているだけで、『お武家さま』とは気前がいい。

俺が立ち止まったのを合図に、乞食は口上を言いはじめた。

【乞食】「三日前に郷(さと)を追われ、着の身着のまま逃がれてまいりました」

【乞食】「老いはてたこの身では、これより先は歩くことさえままなりませぬ」

【柳也】「戦か?」

【乞食】「わかりませぬ」

悲しげに首を振る。

俺は警戒をとかずに、乞食のことを念入りに見あらためた。

怪しい様子はないし、武器を隠しているようにも思えない。

【乞食】「あらあらしき武者装束の一団にただ『立ち退け』とだけ命じられ、家屋敷はおろか田畑(でんぱた)も召しあげられました」

【乞食】「村の者も散り散りとなり、私のごとき身寄りもない年寄りは、ただ途方に暮れるばかりでございます」

【神奈】「それは災難であったの」

乞食さえも目新しいのだろう、神奈が身を乗り出すようにして答えた。

その顔を、乞食はまじまじと見つめ返してきた。

【乞食】「そちらの娘さまは、もしやいずれの高貴な血筋を引くお方では?」

【神奈】「おお、そなたわかるか…」

勢いこんで答えようとした神奈を、あわてて目で制止する。

こほんと咳払いして、神奈は言いなおした。

【神奈】「断じてちがうぞ」

【神奈】「余はなにひとつ怪しいところのない、かわいらしい村娘であるぞ」

【柳也】「………」

【神奈】「なにをぼさっとしておる。この者になにか取らせるがよいぞ」

貴人の気安さで鷹揚(おうよう)に言う。

【柳也】「なにかって言われてもなあ…」

【柳也】「扇子(かわほり)ぐらいしかないぞ」

たしなみで袖にしのばせてはいるが、開いたこともない。

俺は扇子を取り出して、乞食の前に置いてやった。

【柳也】「たいした品ではないが、足しにはなるだろう」

【乞食】「かたじけのうございます」

扇子を顔の前でささげもち、深々と平伏する。

【乞食】「このご恩は忘れませぬ」

【神奈】「達者で暮らすのだぞ」

そして俺たちは乞食から離れた。

背後では、いつまでも伏して見送る気配があった。

【神奈】「よいことをしたの」

上機嫌の神奈が言った。

【柳也】「そうとは限らないけどな」

【神奈】「なにゆえだ?」

【柳也】「騙(かた)りかもしれないってことさ」

俺だって、食うのに困ればだましもすれば誉めもする。

乞食の身の上話など、信じる方が馬鹿を見るというものだ。

【神奈】「ほんにおぬしはうつけよの」

【神奈】「あの者が痩せ細っておったのは、相違(そうい)ないであろ」

当然の顔で諭されて、思わずうなってしまった。

【柳也】「そうか。なるほどな…」

神奈の言葉に素直に感心できたのは、これがはじめてのような気がする。

【神奈】「しかし、腹が空いたぞ」

【柳也】「…感心したそばからこれか」

【裏葉】「神奈さまは育ちざかりでおられますゆえ」

【柳也】「もう『育ちざかり』って年頃でもないけどな」

【柳也】「どうせ育つんなら、尻でなく胸の辺りをもっとこうぷっくりと…」

【神奈】「やかましいわっ」

【柳也】「自覚があるから腹が立つんだろ」

【神奈】「………」

ぽかっ。

【柳也】「…いてて。無言で殴るなよ」

【神奈】「さわいで殴ればよいと申すか」

【柳也】「そんなに乱暴だから、食っても食っても胸が小振りなんだぞ」

【神奈】「そんなわけあるかっ!」

【柳也】「大ありだぞ。なあ裏葉」

【裏葉】「………」

【柳也】「元気がないな、裏葉。どうした?」

【裏葉】「…驚きにならないのですね」

突然の復帰をかるく流されて、かなりがっかりしているらしい。

【柳也】「うわっ。裏葉おまえ、いつの間に帰ってたんだ? ちっとも気づかなかったぞ」

【神奈】「ほんに裏葉は神出鬼没よの」

【裏葉】「まことに白々しいお心づかい、ありがとうございます」

【柳也】「で、どこに行ってたんだ?」

【裏葉】「足りない物などをあれこれと求めておりました」

裏葉は言いながら、腕にかかえた布包みを示してみせた。

【裏葉】「神奈さまにはおみやげが…」

ふところから取り出されたのは、ころりと丸い木の実だった。

【裏葉】「胡桃(くるみ)でございます」

【柳也】「この季節にめずらしいな」

【裏葉】「さる杜(もり)に一枝だけ早成りした、縁起ものだそうです」

【柳也】「ふうん」

【裏葉】「神奈さまの好物ですし、滋養もありますので」

【神奈】「これはまた、ずいぶんと大きいの…」

言いながら胡桃を受けとり、茜色の夕空にかざす。

その仕草がやけに大真面目で、俺はまたも笑ってしまいそうになる。

【柳也】「割ってみなけりゃ、中身はわからないだろ」

【神奈】「そうか…」

神奈はうなずいたが、未練がましく胡桃をもてあそんでいる。

神奈に歩幅をあわせ、三人でならんで歩く。

三つの影がよりそい、道に長く落ちていた。

俺は裏葉の横顔に言った。

【柳也】「買い物があったにしても、だまって行くことはなかっただろ」

【裏葉】「ほかに調べものもございましたので」

【柳也】「調べもの?」

訊ねると、裏葉は俺の耳に唇をよせてきた。

【裏葉】「橋をわたった先に、関がもうけてあります」

『関』と聞いたとたん、体内に冷たい緊張が満ちるのを感じた。

【柳也】「本当か?」

【裏葉】「はい、まちがいございません」

【裏葉】「若い娘だけを選び、衣をはだけさせ、背を改めておりました」

【柳也】「そうか…」

背中の羽をたしかめようというのだろう。

【柳也】「俺たちが従っていることは、知られているようだったか?」

【裏葉】「供の者については、さほど気にかけていない様子でした」

【裏葉】「しかしながら、神奈さまがおひとりで逃げ続けているとは思わないでしょう」

【柳也】「そうだな」

うなずいてから、今後の方針を考えてみた。

このまま街道を進むわけにはいかない。

今夜は野宿し、渓谷を迂回する道を探さなければならないだろう。

【柳也】「しかし裏葉、よく関に気づいたな」

俺が感心してみせると、裏葉はにっこりと微笑んでみせた。

【裏葉】「ここは市が立つにはいささか不便な場所でございましょう」

【裏葉】「いぶかしく思っておりましたところ、『関止めで市が移った』と小耳にはさみましたので、あるいはと」

こともなげに言うが、裏葉の勘と機転はやはり並大抵ではない。

【柳也】「わかった、助かったよ」

【柳也】「山裾までもどって、そこで飯にしよう」

【柳也】「神奈、行くぞ…」

がりがりがりっ。

【柳也】「…なにしてるんだよ?」

神奈は胡桃と格闘中だった。

【神奈】「うがあ~っ。なぜ割れぬのだっ」

がりがりがりがりがりっ。

【柳也】「歯で割れるかっ!」

【裏葉】「うふふふ。栗鼠(りす)のようで愛らしいですわ」

【柳也】「笑いごとじゃないだろ。だいたい裏葉がいなくなったから、俺がひどい目に…」

【柳也】「………」

【柳也】「…裏葉おまえ、『市を見るなら神奈がいると邪魔だ』とか考えなかったか?」

【裏葉】「そんな不敬を思いつくのは柳也さまだけでございます」

丸丸とふくれた布包みを胸に、涼しい顔で答えた。

山道にもどった時は、日没が近かった。

林の中は嫌にがらんと感じられた。

斜光が木々を橙色に染め、闇を迎え入れていく。

野営の場所をさだめ、背から荷を降ろした。

【裏葉】「すぐに水を汲んでまいります」

竹筒を取り出した裏葉に、めずらしく神奈が言った。

【神奈】「余も手伝おうぞ」

【柳也】「じっとしてろ。怪我でもされたらかなわん」

【神奈】「………」

【神奈】「わかった」

いつになく神奈は神妙な様子だった。

俺からすこし離れたところで、言いつけられた通りにしている。

その様子が、どこか儚(はかな)げに見えた。

【柳也】「…神奈?」

【神奈】「ここにいるぞ」

【柳也】「そうか…」

意味のない会話が、どこか照れ臭かった。

【柳也】「遊ばせとくのも惜しいから、薪でもひろってくれ」

神奈が意外そうに俺のことを見た。

【神奈】「…よいのか?」

【柳也】「ああ。ただし、俺から見えないところには行くな」

【柳也】「蝮(まむし)にも気をつけろよ」

【神奈】「わかっておるわっ」

快活に答え、ぱっと走り出す。

思うところあって、その背中に声をかけた。

【柳也】「ちょっと待て」

【神奈】「なんだ?」

【柳也】「胡桃を置いていけ。割っといてやるから」

神奈はふところから胡桃を取りだし、俺のてのひらにぽとりと置いた。

【神奈】「割るのはまかすが、食うでないぞ」

【柳也】「だれが食うかっ!」

神奈が林の奧に走っていった。

薄闇の向こうで、髪に飾った響無鈴(こなれ)だけが西日にちろちろと光る。

離れるなと言ったのに、ずいぶん遠くにいる。

昼間の神奈は、本当に嬉しそうだった。

あれほど多くの人や物に接したのは、はじめてだったはずだ。

興奮が大きければ大きいほど、おわれば夢をつかむような心地になる。

今の神奈には、じっとしているのはつらいのだろう。

たぶんそれは、俺も同じことだった。

【柳也】「………」

てのひらの中に、胡桃がある。

意識からそれ以外の事象を追い出す。

すうと息を吸いこんで、とめる。

下手投げで胡桃を放る。

同時に太刀を抜き放った。

かしゅっ。

かすかな音が夕闇をふるわせた。

流れのままに太刀をおさめる。

胡桃は両断され、地面に落ちていた。

【柳也】「…ふう」

どうやら腕は鈍っていないらしかった。

【柳也】「見事なもんだろ、裏葉」

木立の背後に呼びかけた。

思ったとおり、鳥の子色の衣が音もなく現れた。

【裏葉】「…おそれいります」

あいかわらず、裏葉の気配はつかみにくい。

こちらが神経を研ぎ澄ませていれば、かろうじて気取れるという程度だ。

【裏葉】「それほどの技を、どちらで?」

【柳也】「こんなものはただの座興さ」

【柳也】「胡桃がひとつ割れたところで、今生(こんじょう)は渡れない」

裏葉は何も答えず、腰をかがめて胡桃を拾い集めた。

【柳也】「それは神奈に渡してやってくれ」

【柳也】「太刀を使ったことは言うなよ。『胡桃も生物だ』なんてごねられたら困る」

【裏葉】「『余を主とするかぎり、今後一切の殺生を許さぬ』、ですか」

神奈の言葉そのままを、裏葉が繰り返した。

【柳也】「その誓い、俺が本当に守ると思うか?」

たわむれに訊ねると、裏葉の表情が変わった。

【裏葉】「神奈さまにはかたく口止めされているのですが…」

そう前置きして、裏葉は言った。

【裏葉】「社を出奔(しゅっぽん)した夜のことを覚えておいででしょうか?」

【裏葉】「山中の沢筋で、柳也さまは『ここから動くな』とお命じになりました」

【柳也】「ああ」

【裏葉】「あのあと、追っ手の呼び子を聞いた時、神奈さまは半狂乱でした」

【裏葉】「『柳也どのが追われておる、余が出向かねば殺されてしまう』、と…」

【裏葉】「わたくしが策略だと説いても、お聞き入れくださいませんでした」

あの雨の夜。

氷焔(ひょうえん)のような神奈の怒りを思い返していた。

俺を救いたい一心で、言いつけをやぶった神奈。

敵の命乞いを聞くことなく、太刀を振り下ろそうとした俺の姿…。

【柳也】「そうだったのか…」

言葉が続かなかった。

左腰に吊った太刀の緒が、じんじんと疼(うず)いていた。

裏葉は微笑み、おだやかに言葉を続けた。

【裏葉】「おそれながら、柳也さまは不殺(ころさず)の誓いをお守りになるでしょう」

【柳也】「なぜそう思う?」

【裏葉】「あの時、『その者を斬り捨てよ』と神奈さまが命じられたなら、柳也さまはどうなさいましたか?」

【柳也】「………」

【柳也】「怒っただろうな。『人の生命をかるがるしく扱うな』って」

【裏葉】「そうでございますよね」

【柳也】「大人は童子に範を示してやらないとな」

【裏葉】「そのとおりでございます」

いつかのように、ふたりして笑う。

その時、がさっと下草が鳴った。

振り返ると、神奈が俺たちのことを見ていた。

【神奈】「何をしておる」

【柳也】「ちょっと立ち話だ」

【神奈】「夕餉の支度はどうしたのだ。まったく益体もない…」

よほど腹が減っているのかと思ったら、どこか様子がそわそわしている。

【柳也】「おまえこそ、薪を集めてたんじゃないのか?」

【神奈】「あちらに見える村が、なにやら妙な風なのだ」

【柳也】「妙な風?」

裏葉と顔を見合わせた。

神奈に急かされて、三人で林の端に移った。

【神奈】「あれだ」

ついと、細い指で示す。

薄闇におおわれるように、小さな山間の村が見える。

なにかを用意しているのか、開けた場所に足場を組んでいるのが見えた。

【柳也】「物見櫓(ものみやぐら)か…?」

神奈たちを奧に隠そうとして、裏葉の訳知り顔に気づいた。

【裏葉】「あれは、祭のようですね」

【神奈】「祭とな?」

【裏葉】「神さまに感謝と願いを届ける儀式でございますわ」

【神奈】「あの村にも社があると申すか?」

勢いこんで訊ねた神奈に、裏葉がやんわりと首を振った。

【裏葉】「いえ、一口に祭と言っても色々なものがございます」

【裏葉】「まつられる神もまたさまざまです」

【裏葉】「あちらに見えますのは、火祭のようですね」

村人たちは、手に手に木切れを持ち寄っている。

男たちがそれを受けとり、櫓に運びあげる。

【裏葉】「あの櫓の最上にて、炎を焚いて祈ります」

【神奈】「なにゆえにか?」

【裏葉】「ほんのわずかでも神さまに近づくため、でございましょうか」

【神奈】「そうか…」

わかったのかわからないのか、あいまいに頷く。

夕風に乗って、囃子(はやし)の音が流れてきた。

祭りがはじまったようだ。

うねるような鼓(つつみ)の拍子を、笛が追いかける。

雅楽(ががく)とはおもむきの異なる、にぎにぎしく素朴な節回し。

櫓の上に、ぽっと炎がともった。

またたきはじめた星を目指し、煙が昇っていく。

人々の歓声が、そのあとを追う…

【神奈】「ずいぶんと楽しげよの」

だれに聞かせるでもなくつぶやく。

自分とは無縁の幸せを垣間見る、隠者の口ぶりだった。

裏葉がさりげなく目くばせしてきた。

仕方なく、俺も目でうなずいてみせた。

【裏葉】「神奈さま、もっと近くでご見物なさいませんか?」

【神奈】「よいのか…?」

輝かせた瞳を、あやふやに伏せる。

ここまで気後れした神奈を見るのははじめてだった。

【柳也】「林から眺めるだけならな。輪の中に入るのは駄目だぞ」

警護担当にとっては、これが最大の譲歩だ。

神奈はなにか思案していたが、やがて小声で言った。

【神奈】「よい。では、余を祭まで案内せよ」

【柳也】「お供つかまつります」

うやうやしく頭を垂れる。

【柳也】「途中で暗くなるな。裏葉、手を引いてやってくれ」

【裏葉】「はい。では神奈さま、お手を」

袖をととのえてから、神奈の右手をそっと握る。

【神奈】「やさしすぎて、気色が悪いぞ…」

そんなつぶやきが聞こえた。

辺りに闇が満ちるにつれて、祭の音がだんだんと近くなってきた。

【裏葉】「神奈さま、こちらならよく見えます」

裏葉が言った。

瞳を凝らした神奈が、思わず声をあげた。

【神奈】「おお…」

祭りはまさに酣(たけなわ)だった。

燃えさかる火櫓の周りに、たくさんの村人が輪をなしている。

ある者は空を仰ぎ、煙と炎の行方を追う。

ある者は一心に舞い踊り、衣の裾を滑らせる。

囃子はいっそう高く響く。

炎と闇が人々をひとつに結ぶ。

太古から続く寿(ことほ)ぎの調べが、天に還っていく。

【神奈】「なにゆえにみな、あれほど楽しげなのだ」

それは素直な問いなのだろう。

舞い踊る人々から視線を外さず、神奈がつぶやいた。

【裏葉】「あの火の粉を浴びますれば、息災(そくさい)に過ごせるのだと聞きます」

【柳也】「ああして羽目を外せば、日頃の憂(う)さもまぎれるってことさ」

【裏葉】「それだけではございません」

すかさず裏葉が口をはさんだ。

横目で俺をにらみつけ、『興醒めなことを言うな』と釘を刺す。

【裏葉】「みな、信じているのでございます」

【裏葉】「願いは必ずや天に届くと」

願いは必ずや天に届く。

そう聞いた時、神奈の肩がびくりと震えたのがわかった。

【神奈】「だれが願いを届けるのだ?」

たじろいだ裏葉の顔を、濁りのない瞳が覗きこむ。

【神奈】「余は神になど会ったこともないぞ」

【神奈】「幼きころより何遍(なんべん)もためしたが、余は空など飛べぬ」

【神奈】「社殿の屋根より飛びおりた折も、木の葉ほども浮かばなかった」

【神奈】「どんなに羽ばたいたとて、余の背羽は空(くう)を切るばかりだ」

【神奈】「余の背羽は、益体もないまがいものぞ」

【神奈】「余は願いなど、届けられぬ」

【神奈】「届けられぬぞ…」

ごうと音を立て、炎が燃えさかった。

降りかかる火の粉に、笑い声がはじける。

神奈の瞳が紅蓮(ぐれん)を映し、どこかうつろに揺らぐ。

一度は振りはらったはずの日々が、神奈を責めさいなんでいる。

【裏葉】「神奈さま…」

心細げに震える背に、裏葉がそっと寄り添った。

粗末な袖で、神奈の身体を被う。

嵐に迷った水鳥が、こごえた雛を羽毛でつつむように。

【柳也】「…祭もそろそろ佳境だな」

俺は言うでもなく言い、神奈に歩み寄った。

【柳也】「おまえも願っておけよ、ついでだからな」

きょとんとした顔で俺を見返す。

何を言われたのか、とっさにはわからなかったようだった。

【神奈】「余も…」

【神奈】「余も、願うてよいのか?」

【柳也】「あたりまえだろ」

【神奈】「何をささげればよいのだ?」

【神奈】「余は薪など持っておらんぞ」

【柳也】「燃やす物なんていらない」

【神奈】「あのように踊ればよいのか?」

【柳也】「踊りもいらない」

【神奈】「では、どうすればよいのだ…」

途方に暮れて、俺を見返す。

【柳也】「願いを心に想えばいいんだ」

【柳也】「それだけでいい」

神奈が押し黙った。

俺に教えられた通り、心をひとつにまとめようとする。

神奈が何を願っているのか、俺にはよくわかった。

見開いたままの、あどけない瞳。

その先に、神奈の願いはたしかにあった。

幼子(おさなご)を抱き、幸せそうに笑う母。

温かな母の胸で、きゃっきゃとはしゃぐ娘子。

どこにでもあるはずの、どうということはない夏祭の光景。

神奈が瞳を逸らす。

目の前のものが信じられない、そう言いたげに。

神奈の頭にぽんと手を置いた。

つややかな黒髪を、そのままくしゃっとかきまぜる。

【柳也】「そんな顔するな」

【柳也】「おまえの願いはきっとかなう」

【柳也】「きっとかなう」

【裏葉】「そうだよな、裏葉」

【裏葉】「…ええ」

【裏葉】「そうでございますとも…」

神奈を抱いたままの袖に、きゅっと力がこもる。

【神奈】「裏葉、痛いぞ」

【裏葉】「………」

【神奈】「くすぐったいぞ…」

そうだ。

神奈の願いはきっとかなう。

俺たちが、かなえてみせる。

夜気にさらされたまま、俺たちはずっとそうしていた。

祭の炎はいつまでも、夏の夜空に照りはえていた。

翌朝。

日の出前に出立し、午後には峠を越えた。

関のあった村から山をひとつ越し、街道を離れた。

翌日も山中をすすみ、沢合いで野営した。

さしせまった危険を察したからではない。

神奈が市で目立ちすぎたので、念には念を入れてだ。

追っ手にとって、神奈はあくまで貴人の姫君だ。

山奥で野猿なみの暮らしをしているなど、思いもよらないにちがいない。

こちらから街道に近づかないかぎり、見とがめられる恐れはない。

俺はそう判断していた。

午後。

俺たち三人は、櫟(くぬぎ)の木陰で涼をとっていた。

ひさしぶりの休日だ。

森の中には、降るような蝉の声が満ちている。

しかし、暑いというほどではない。

吹き渡る風も、どこか空(うつ)ろな気配をのぞかせる。

夏はさかりを過ぎようとしていた。

それなのに、俺は汗だくだった。

朝からずっと、面白くもない書を読み続けているせいだ。

『願いをかなえてやる』と大口をたたいたまではいい。

母君の居場所がわからないのでは、話にならない。

しかし、関が設けられている以上、街道には近づきたくない。

となれば頼りは、俺が社殿から持ち出した文書だけだった。

【柳也】「…もののけにむかひて物語りしたまはむとも、かたはらいたけ…」

【柳也】「これもちがうか」

ばさっ。

放り投げた書が、地面でぱらぱらとめくれた。

大きく伸びをしながら、視線をとなりに送る。

裏葉が身じろぎもせずに巻物をたぐり読んでいる。

【柳也】「裏葉、なにかわかったか?」

【裏葉】「いえ、これと言って」

【柳也】「そうか…」

裏葉はつとめがら、仮名も真名も読みこなせる。

俺は読み書きの素養があるわけではない。

書状ぐらいならどうにかなるが、漢書はおおよその意味しかわからない。

【柳也】「…こいつは役に立たないし」

じろっと見た先には神奈。

幹にもたれかかり、だらしなく寝ほうけている。

そのまわりには、遊びかけのおもちゃが散らばっている。

雛人形、竹細工、土鈴、笛、蜻蛉玉(とんぼだま)…

すべてこの前の市で、裏葉が手に入れたものだ。

裏葉に遊び方を教わっては、夢中であれこれ試している。

俺もとばっちりを受けている。

ここのところ、休憩のたびに人形遊びにつきあわされていたのだ。

ちなみに俺の人形は、お姫さまにこき使われる家来の役だ。

しかも数が足りないので、俺のだけいいかげんな木っ端製だ。

人形界のこととはいえ、我が身が不憫でならない。

【神奈】「…すう…すう…」

寝顔だけは大人しい。

【神奈】「まったくおぬしはうつけよの」

【神奈】「…ぐう…」

【柳也】「………」

【柳也】「けなげに立ち働く家来に対してそのふざけた寝言はなんだこらっ!」

思わずつかみかかろうとして、冷ややかな視線に気づいた。

【裏葉】「………」

【柳也】「すまん、ちょっと取り乱した」

【裏葉】「お手を動かしくださいませ、柳也さま」

【柳也】「わかってる」

しかたなく、次の書に取りかかる。

【柳也】「ぐわあっ」

全部漢文だった。

頭をかかえながらも、たどたどしく読みはじめる。

しばらくすると、神奈がもぞもぞと動き出す気配がした。

【神奈】「…ふぁーっ」

【神奈】「よう寝たの」

大あくびと共に、木の根から腰をあげる。

【裏葉】「神奈さま、お目覚めでございますか?」

【神奈】「うむ」

【神奈】「喉がかわいたぞ、水はないか?」

【裏葉】「はい、こちらに…」

【神奈】「よいよい。自分でしようぞ」

立ちあがろうとした裏葉を制して、竹筒を持ちあげる。

【神奈】「んくっ、んくっ、んくっ…」

【神奈】「…ぷはぁ」

美味そうに飲みきって、特大の吐息をひとつ。

【神奈】「やはり夏はこれよの」

【柳也】「幸せそうだな、神奈」

嫌味のひとつも言いたくなる。

【神奈】「おぬしはずいぶん薄幸そうよの」

【神奈】「ずっと書を読んでおったのか? 柄にもないことを…」

【柳也】「そう言うおまえは読めるのか?」

【神奈】「だれも教えなかったのだ。読めるはずがないであろ」

意味もなく威張りながら言う。

【柳也】「よく裏葉が放っておいたな」

俺がそう言ったとたん、裏葉の眉がぴくっと動いた。

【裏葉】「放ってなどおきませんっ」

【裏葉】「神奈さまが、『裏葉にだけは習いとうない』などとおっしゃって…」

【神奈】「あれは裏葉の咎(とが)であるぞ」

【裏葉】「ひどいっ。この裏葉が何をしたとおっしゃるのですっ?」

【神奈】「歌集の件、忘れたとは言わさぬぞ」

【裏葉】「あれは神奈さまのお心を豊かにしていただきたいがため…」

【神奈】「あの教えようでどこが豊かになるかっ!」

【柳也】「…なんの話だよ?」

【裏葉】「以前、神奈さまに和歌をお教えしたおりのことでございます」

【裏葉】「少々の苦労は手習いごとにつきもの。それなのに神奈さまときたら…」

【神奈】「一日に百首そらんじるのが少々の苦労と申すかっ」

【裏葉】「全部で四千五百首あるのですから、ぐずぐずとはできません」

当然のように真顔で言う。

要するに以前、神奈にぶ厚い和歌集を丸暗記させたことがあるらしい。

ためしに想像してみた。

和歌を一日百首ずつ、四十五日の間ひたすら覚え続ける。

しかも裏葉つきっきりでの手ほどき。

【柳也】「…よく死ななかったな」

【神奈】「うむ、それよ」

【神奈】「このままでは殺されると思うたのでな」

【神奈】「夜中のうちに起きだして、歌集全巻をかまどに放りこんでやった」

【裏葉】「おかげで、せっかくの古今六帖一具が朝餉(あさけ)の焚きつけに」

【裏葉】「あれだけのものを都合するのに、この裏葉がどれほど身をくだいたことか…」

【神奈】「うむ。あの日の飯はまことに風流な味だったぞ」

【裏葉】「そのような妄言をのたもうのはこの口でございますかっ」

神奈の唇に小指をつっこみ、左右にびろーんと伸ばす。

【神奈】「ひゃっ、ひゃめんかふりゃは~」

【裏葉】「和歌のひとつも詠えぬ口など、無用の長物というもの」

【神奈】「むっ、むひゃをひゅうでなひ~」

【裏葉】「いっそ縫いつけてしまいましょうか」

満面の笑みのまま、とてつもないことを言い放つ裏葉。

【神奈】「にゃにほひてほるー。ひゃほふにはすへんは~」

…助けろと言われても、俺だって命は惜しい。

【神奈】「ひょっ、ひょのひゃくたいなひ~」

【裏葉】「…はっ」

そこで裏葉が我にかえった。

俺の視線に気づき、つっこんだままの指をあわてて離す。

【裏葉】「もうしわけありません。少々取り乱しました」

【柳也】「いやいや、気にしなくていい」

【神奈】「…なぜおぬしがゆりゅすのだっ!」

【柳也】「まだ言葉が変だぞ」

【神奈】「むぅ」

伸びてしまったほっぺたに、両手をあてて揉む。

とにかく、こいつがいると仕事がはかどらないのは確実だ。

【柳也】「手伝えないんなら、ひとりで遊んでろ」

【神奈】「ひとりではつまらぬ」

【柳也】「おもちゃならそこにいくらでもあるだろ」

【神奈】「飽きたぞ」

【柳也】「おまえなあ」

呆れていると、ふところからお手玉を取り出した。

【柳也】「お手玉だけは飽きないみたいだな」

【柳也】「下手の横好きというやつか」

【神奈】「やかましいっ」

【神奈】「ここは邪魔が多いゆえ、あちらでやることにする」

裏葉の方をじろりと見てから、向こうの木まで歩いていく。

ううう、と悲痛な声が聞こえたが、気にしないことにしよう。

そんなこんなで。

何の成果もないまま、夕方になってしまった。

南の社の場所はおろか、俺たちがいた社のことさえどこにも書かれていなかった。

なぜそこまでして翼人のことを隠す必要があるのか。

それさえわからなかった。

代わりにわかったのは、翼人という存在がいかに謎めいたものであるかだった。

同じ書の中で、扱いがまったく正反対の場合さえあった。

人に知恵と知識をさずけた、貴(たっと)ぶべき神。

かつて地上に災厄をもたらし、人により掃討された悪鬼。

最後にあたった古い書物には、こんな記述があった。

『鳳翼不老不死以其羽記天命』

【柳也】「不老不死、か…」

思わず、神奈の方を見た。

地面に落ちたお手玉を拾い集め、また空中に投げている。

ここまで根気強い奴だとは思っていなかった。

【神奈】「うがあっ。なぜうまくゆかぬっ」

…ここまで不器用だとも思っていなかったが。

【裏葉】「柳也さま、こちらはすべて終わりました」

俺のとなりで、裏葉が巻物のひもを結びながら言った。

何の成果もなかったことは、横顔を見ればわかった。

【柳也】「『ここより南の社』だけじゃな…」

俺がつぶやくと、裏葉が問いかえしてきた。

【裏葉】「仮にでございます」

【裏葉】「南の社の翼人が母君だったとして、今もそちらにおられるでしょうか?」

【裏葉】「神奈さまは年ごとに社を移っておいででした」

【裏葉】「とすると、神奈さまの母君も居所を移っているのでは?」

それは俺も考えていたことだ。

だが…。

【柳也】「おそらく、それはないと思う」

【裏葉】「なぜでございましょう?」

【柳也】「勘というやつだ」

ずっと胸に引っかかっていることがある。

衛士が打ち明けた最後の言葉だ。

『母親は人心と交わり、悪鬼と成り果てた』

悪鬼と呼ばれるほどの存在を、連れ回すことなどできるだろうか?

そもそも、悪鬼とは何のことなのだろうか?

黙りこんだ俺を見て、裏葉がそっとつぶやいた。

【裏葉】「勘でございますか…」

【柳也】「何か言いたそうだな」

【裏葉】「いえ」

【裏葉】「柳也さまの勘は、いつもお確かですから」

例によって真顔で答える。

【柳也】「とりあえず、俺の勘が当たっているとしてだ」

【柳也】「南の社のありかがわからないことには、どのみち動きようがない」

【裏葉】「そうでございますね…」

そう答えたきり、考えこんでしまう。

【柳也】「せめて神奈が何か覚えていればな…」

これほど話が早いことはない。

だが、謎を知るはずの本人に、鶏ほどのもの覚えもないのだ。

溜息をつく。

お手玉に興じる神奈を、しばし眺める。

【神奈】「おぬしはまた逸れるかっ」

三つ目のお手玉を手に、何やらこんこんと説教をしている。

【神奈】「他のふたつの玉はいい具合に舞うというに、なぜおぬしだけそう不器用なのだ」

【神奈】「まったくおぬしはぐずでのろまよの。柳也」

【柳也】「…お手玉にまで俺の名をつけるのはやめろっ!」

【神奈】「やかましいぞっ! 気が散るではないか」

【柳也】「いいからちょっと来いっ!」

俺が呼ぶと、ぶつぶつ不平をこぼしながらやって来た。

【神奈】「何用か?」

【神奈】「夕餉にはまだ早いであろ」

【柳也】「食うことしか頭にないのか」

【柳也】「母君と別れた時のこと、なにか覚えてないか?」

訊ねたとたんに、嫌な顔をした。

【神奈】「覚えていないと再三申しておるであろ」

【柳也】「母君のことでなくてもいい。何でもいいから覚えてないか?」

顎に手をあてて、しばし考え込む。

【神奈】「…何でもと言われてもの」

【柳也】「最初にいた社の様子とか、旅の道のりとか、何かないか?」

藁にもすがる思いで、しつこく訊きなおす。

神奈はやっと、何かを思いだしたようだった。

【神奈】「幼きころは、社を移るのはまことにつらい旅であった」

【神奈】「乗りたくもない牛車(ぎっしゃ)に詰められ、歩くことも許されぬ」

【柳也】「そりゃそうだろ」

徒歩(かち)で旅する貴人など、聞いたこともない。

【神奈】「牛にも乗させてもらえなんだぞ」

【柳也】「…乗ってどうするんだよ?」

【神奈】「車の中は地獄のように蒸し暑いのだ」

【神奈】「せめて涼もうと衣を脱いでおったらな、見つかって大さわぎよ」

【柳也】「おまえ、本当に貴人か?」

幼い頃のこととはいえ、まともな女子(めのこ)のすることではない。

【神奈】「それにな」

【神奈】「随身(ずいじん)の男が礼儀知らずの大うつけでの」

【神奈】「余が従わぬと、『おまえも金剛に封ずるぞ』などと脅してな」

【柳也】「…金剛に封ずる?」

【神奈】「聞きわけのない翼人は、昔からそうするものと決まっておるそうな」

【神奈】「あのころはもの知らずだったゆえ、それは脅えたものぞ」

遠い目をして言う。

【神奈】「それはそうと、金剛とはなんだ?」

【柳也】「今でも充分もの知らずだっての」

【裏葉】「金剛とは宝石でございます」

【裏葉】「この世でもっとも硬く、また美しいものと伝え聞いております」

【柳也】「金剛か…」

話には聞くが、実物を見たことはもちろんない。

神奈を大人しくさせるなら、そのぐらい持ち出さないと駄目だろう。

【神奈】「して、どうやって余をそれに封じるのだ?」

【柳也】「そりゃ俺が知りたいぞ」

【柳也】「………」

【柳也】「おまえのように大食らいで聞きわけのない翼人は、こうしてくれるっ」

【神奈】「こっ、こらやめんかっ。うあああぁぁぁ…」

あっという間に小さくなり、金剛に吸い込まれる神奈。

呪文ひとつで出し入れ自由。

かさばらず、持ち運びも手軽。

この上なく便利だ。

翼人警護者の間で大人気まちがいなしの逸品だ。

【神奈】「…余はおぬしが今、この上なく無礼なことを考えておるような気がするぞ」

【柳也】「気のせいだろ」

【神奈】「………」

ぽかっ。

【神奈】「なにゆえおぬしから先に殴ってくるかっ」

【柳也】「すまん。殺気を感じたんで手が動いてしまった」

【神奈】「こっ…」

その時、いきなり裏葉が叫んだ。

【裏葉】「…柳也さまっ!」

【柳也】「なんだよ、いきなり」

【裏葉】「南の社というのは、神社とはかぎらないのでは?」

【柳也】「ああ?」

【裏葉】「貴人を衆目から隠すには、襤褸(ぼろ)をかつがせましょう?」

【裏葉】「あるいは、袈裟(けさ)などを…」

【柳也】「袈裟?」

神社ではなく寺院に隠すという意味か?

俺がわからずにいると、裏葉はするりと立ち上がった。

地面に放ったままの絵地図を広げなおし、俺の目前にかかげる。

【裏葉】「この辺りが神奈さまの社、こちらが都でございます」

【裏葉】「斑鳩(いかるが)を越えて、さらに南に下りますと…」

裏葉の指が、地図の一点を示した。

【裏葉】「ここに金剛がございます」

正しくはそれは、広大な山群そのものを表していた。

俺は二の句がつげなかった。

裏葉が辿り着いた答えが、それほど突拍子もないものだったからだ。

『意に従わない翼人は金剛に封じる』

金剛とは何のことか?

悪鬼を封ずるほどの力を持つ『社』とはどこなのか?

【裏葉】「…ここが真言の霊山」

【裏葉】「高野山、金剛峰寺でございます」

その晩は、なかなか寝つけなかった。

何の気配もしないのに、心がざわついておさまらない。

やがて、妙な夢を見た。

神奈がひどく真剣な顔つきで、俺を覗きこんでいる。

背後に月がある。

濡れたような唇のあたりが、妙になまめかしい…

【神奈】「…柳也どの」

俺の名をささやいている。

【神奈】「柳也どの…柳也どのっ」

眼を開けると、本当に神奈の顔があった。

ほのかな月光の下でも、頬が上気しているのがわかった。

【柳也】「…なんだよ」

木の幹に寄りかかったまま、俺はそう訊いた。

【神奈】「柳也どのに、見てほしいものがあるのだ」

【神奈】「まだ、ちと恥ずかしいが…」

【神奈】「見てくれるか?」

ほっそりとした神奈の指が、着物の襟元に触れる。

そして、神奈は言った。

【神奈】「ではゆくぞっ」

【柳也】「………」

【柳也】「それは何だ?」

神奈がふところから取り出したものを指し、俺は訊いた。

【神奈】「お手玉だぞ」

【柳也】「…念のために訊くけどな。おまえはこれから何をするつもりだ?」

【神奈】「だからお手玉だと申しておるであろうが」

【神奈】「さっきな、三つきちんと舞ったのだぞ」

【柳也】「………」

【神奈】「その目は疑っておるな」

【神奈】「まことだぞ、まことに三つきれいに回せたのだっ…」

【柳也】「………」

【柳也】「……」

【柳也】「………」

【柳也】「おやすみ…」

【神奈】「寝るでないっ!」

【柳也】「寝かせろっ! こっちはさっき寝ついたばかりなんだ」

【神奈】「ええいっ、寝るでない寝るでない寝るでないっ!」

【神奈】「主が秘芸を見せてやると申しておるのだ。ひれ伏して拝見するのが臣下の務めというものであろっっ!」

【柳也】「無茶苦茶言うなああっっ!」

深夜の森に絶叫がこだまする。

まさに悪夢のようだった。

このままでは埒(らち)があかないと思ったのだろう。神奈が最終手段に出た。

【神奈】「では、余はおぬしに命ずるぞっ…」

【柳也】「わああっ。待て待てっ!」

俺はあわてて神奈の口をふさいだ。

例の不殺の誓いだけでも大変なことになっているのだ。

この上、妙な誓いを増やされてはたまらない。

【神奈】「ふむむ~。ふむうむ~むむむうむぐむう…」

じたばたじたばた。

あばれる神奈を押さえつけていると、何だか空しくなってきた。

眠気など、もうとっくに失せてしまっている。

【柳也】「…はいはい、わかったよ」

【柳也】「見てやるから、早めに済ませてくれ」

ぱっと手を離しながら、俺は言った。

神奈が俺をぎろりとにらみつける。

が、文句よりも先にお手玉を披露したいらしい。

【神奈】「よいか? よ~く見ておるのだぞ」

言いながら、俺の前にぺしゃりと座りこむ。

神奈がお手玉を持って構えた。

ぴんと背筋を伸ばした姿勢は、なかなか堂に入っている。

【神奈】「それっ」

ひょい…ひょい…ひょ…。

【神奈】「…あう」

失敗した。

二つ目を投げるのが早すぎて、右手がついていかないのだ。

【神奈】「さっきはできたのだ」

【神奈】「もう一度するから、よく見ておれ」

【柳也】「ああ、何度でもやってくれ」

お手玉を拾い集め、もう一度かまえなおす。

【神奈】「…それっ」

お手玉は山なりに宙を舞い、右手へと渡る…

【神奈】「むっ…」

だが、左手が動かなかった。

【柳也】「今度は溜めすぎだな」

【神奈】「嘘ではないっ。さっきは本当にできたのだぞ!」

【柳也】「だれも嘘だなんて言ってないだろ」

【柳也】「落ち着けって。気を静めてやらないと、名人でもできないぞ」

【神奈】「うむ。わかった」

【神奈】「…すう…はあ」

大きく息を吸い、そして吐く。

【神奈】「ゆくぞ」

【柳也】「ああ」

【神奈】「…今度こそ」

つぶやいて、お手玉を宙に放った。

ひとつ、ふたつ、みっつ……。

お手玉は不器用ながらも、たしかに輪を描いていた。

【神奈】「ほら、できたであろっ!」

だが、喋ったとたんに輪が崩れた。

お手玉が神奈の指先をかすめ、地面にぽとりと落ちた。

【神奈】「…あ」

視線が宙を泳ぐ。

夢中でお手玉を拾い、もう一度投げようとする。

そこで、俺の視線に気づいた。

【神奈】「さっきはもっと回せたのだっ」

噛みつくように言う。

【柳也】「それだけできれば大したもんさ」

【神奈】「慰めなどいらぬ」

【柳也】「慰めで言ってるわけじゃない」

【柳也】「そこまでできるようになったのは、おまえが頑張ったからだろ」

言いながら、自然と笑みがこぼれてしまう。

神奈の様子がおかしかったからじゃない。

最初の時のことを思い出したからだ。

石つぶてかなにかのように、勢いよく宙を飛んだお手玉。

あれから毎日、神奈は手習いを繰り返していた。

ここまで上手になるとは考えてもいなかった。

【柳也】「あきらめが悪いってのは、すごいことだな」

【神奈】「誉められておるのか、けなされておるのか、わからぬ」

困ったようにつぶやく。

【柳也】「誉めてるんだって」

【柳也】「何にせよ、よくやったな。神奈」

頭にぽんと手を置いてやった。

やわらかな髪の感触が、たしかに伝わってくる。

【神奈】「………」

【神奈】「もっと、上手になりたいぞ」

【柳也】「毎日続ければ、きっと達人になれるさ」

【神奈】「大げさよの」

【柳也】「本当だって」

戸惑った神奈が、やがてぎこちなく微笑んだ。

【神奈】「…余のお手玉、また見てくれるか?」

【柳也】「ああ、俺でよければいつでも見てやるよ」

【柳也】「ただし、夜中はもう駄目だぞ。裏葉が心配するからな」

俺の言葉に、こくりと頷く。

【神奈】「わかった」

【柳也】「じゃあな。おやすみ」

神奈の後ろ姿が、闇の奧に戻っていった。

ひとりになると、虫の音がいやに淋しく感じられた。

【柳也】「………」

まあいい、寝よう。

木の幹に背中を預け、太刀を抱えたまま目をつぶる。

やわらかな眠気が波のように満ちてきた。

これならすぐに熟睡できそうだった。

【裏葉】「おはようございます、柳也さま」

【柳也】「…ぐをあっ!」

今度は裏葉の顔が真正面にあった。

【裏葉】「お二人で、楽しそうでございましたね~」

地獄の底から響いてくるような、重苦しい声音で言う。

【裏葉】「裏葉はひとりで寂しゅうございました」

【柳也】「見てたんなら、来ればよかったのに」

【裏葉】「お呼びくださるのをずっと待っておりましたのに…」

【裏葉】「神奈さまのお手さばきを間近で拝見したかったのに~」

よよよ、と泣き崩れる。

単にうらやましかっただけのようだった。


★[ 霊 山 ]/柳也★

月光が、降りそそいでいた。

名もない森の隅々まで、淡い光が満ちていた。

俺は思いだしていた。

蒸し暑い社殿の夜。

神奈がつぶやいた言葉。

『逢いたい…』

すべてはあの夜からはじまった。

あれからちょうど、一月が過ぎようとしていた。

霊峰高野山。

金剛峰寺のふところに、俺たちはいた。

【神奈】「寺などどこにもないではないか」

【神奈】「どこまで行っても見たような森ばかりだ」

【神奈】「景色がかわらず退屈だぞ」

【柳也】「…だまって歩け」

金剛峰寺とは、高野山にある幾百もの寺院をまとめて指す名だ。

高野山そのものも、同じように金剛峰寺と呼びならわす。

【柳也】「もう高野の領内に入っているはずだ」

警護の者がいても不思議はない。

【神奈】「さっきから同じところを回っている気がするぞ」

【柳也】「気のせいだ、だまって歩け」

【神奈】「…むぅ」

さっきから同じ会話を何度もしている。

俺も何かおかしいと思いはじめていた。

山中で道に迷うのは、周りの景色に頼りすぎるためだ。

ここまで俺は、月を頼りに歩いてきた。

方角を間違えるはずはないのだ。

だが、何かが微妙におかしい。

夏の夜にはめずらしく、月は冴え渡っている。

満月にはほんの少し満たない月。

しんがりを歩いていた裏葉が、不意に立ちどまった。

【柳也】「どうした、裏葉」

【裏葉】「柳也さま、これを」

見ると、太い杉の幹に麻縄が巻かれていた。

そこから等間隔に、白い紙が垂らされている。

【柳也】「注連縄(しめなわ)か」

【裏葉】「結界が張られているようですわ」

【神奈】「結界とは何だ?」

【柳也】「不浄なものを入れぬための、仕切(しきり)のようなものでございます」

【神奈】「不浄なものとは、どのようなものだ?」

【柳也】「鬼とか怨霊とか大食らいの翼人とかだな」

【神奈】「だれが大食らいかっ!」

【柳也】「おまえだなんて一言も言ってないぞ」

【裏葉】「おしずかに」

鋭い声でたしなめられ、あわてて口をつぐむ。

裏葉は身じろぎもせずに、行く手の闇を見つめている。

息さえも止めているようだった。

やがてするりと袖を持ち上げ、一方を指さした。

【裏葉】「こちらでございます」

【柳也】「わかるのか?」

【裏葉】「何とはなしにでございますが」

うっすらと微笑む。

思わず神奈と顔を見合わせた。

裏葉の行動には今も謎が多い。

しかし、信じられると思った。

裏葉の導きで、月光の森を進んでいく。

途中、いくつかの注連縄を見つけた。

月はある時は左に見え、ある時は右に見えた。

俺の感覚に従えば、同じ場所を堂々巡りしているようにしか思えない。

その時不意に、月が雲に隠れた。

森の様子が変わった。

人が入ったことのない、原生林のようだった。

ねじくれた木々の枝が、行く手をふさいでいる。

湿り気を帯びた靄(もや)が、綿屑のようにたなびいている。

さっきまで歩いていた森とは、まったくおもむきが違った。

【神奈】「薄気味が悪いぞ…」

神奈の声が、嫌にゆがんで響いた。

頭の奧に、ひどい圧迫感がある。

自分がまっすぐに立っているのか、それさえわからない。

【柳也】「どういうことだ…?」

【裏葉】「結界の只中(ただなか)に入ったのでございましょう」

【柳也】「結界の、只中?」

足を踏み出してみた。

濡れた羊歯(しだ)が足にからみつき、ひどく歩きにくい。

【柳也】「どっちに進めばいいんだ」

つぶやいた時。

ひとすじの匂いが、鼻先をかすめていった。

鈍った頭がぴんと警報を発した。

この匂いだけは間違えようがなかった。

何かが焼ける匂い。

錆びた鉄と松明、汗で濡れた革と麻、そして血の匂い。

【柳也】「とまれ、声を立てるな」

【神奈】「いきなりどうしたのだ?」

【柳也】「この先で戦(いくさ)をしている…」

靄の向こうから、甲高い音が聞こえる。

きん…かっ…

刀と刀が切り結ぶ音だ。

【柳也】「近い…いや、遠いのか?」

音までの距離が、まったくわからない。

こんなことは初めてだった。

裏葉と神奈が、左右から俺に身を寄せてきた。

この二人に不安を悟られてはいけない。

それなのに、どうするべきなのか考えがまとまらない。

その時だった。

目前の闇が、どろりと溶け落ちた。

空間そのものが引き裂かれたような、強烈な違和感が襲った。

つぶりかけた眼を、無理にこじ開ける。

人影が見えた。

ぬらりと光る、刃物の切っ先も。

【柳也】「走れっ!」

裏葉と神奈の背を押すように、靄の中に送り出す。

【柳也】「裏葉、神奈を護れっ」

【裏葉】「はいっ」

裏葉がふところから短刀を引き抜いたのが見えた。

同時に、俺も抜刀する。

現れた人影は…三つ。

どれも身の丈六尺近い大男だ。

灰色の僧衣に、黒鞘の長太刀。

すっぽりと被った頭巾(ずきん)から、鋭い眼だけが覗いている。

【柳也】「高野の武者法師か…」

金剛峰寺全山を守護する、僧形(そうぎょう)の荒くれ者たち。

勇猛で名高く、山岳で戦うのに慣れている。

おまけに、死んでさえ仏の加護があると信じている。

できればまともには斬り結びたくない相手だ。

武装は薙刀(なぎなた)が二人、太刀が一人。

【僧兵】「田舎侍風情(ふぜい)が、どうやってここに入り込んだのだ」

薙刀をたずさえた一人が、頭巾ごしの野太い声で言った。

【柳也】「浮かれて夜道を歩いてたら、野狐に化かされたらしい」

【柳也】「いや、どちらかというと野狸かな」

【僧兵】「何をっ…」

いきり立った僧兵が、ずいっと歩を進めた。

俺は刀を中段にかまえた。

掌の中で太刀を返し、刀背(むね)を上向ける。

不殺の誓いというやつだ。

乱戦になれば怪しいが、やれるところまでは峰打ちでしのぐ。

相手を見据えたまま、呼吸を落ち着ける。

全身の力を抜く。

微風になびく絹のように、己をゆるやかに保つ。

ふっと、気が乱れた。

【僧兵】「どうりやぁあぁあぁあぁ~~」

薙刀の僧兵が打ちかかってきた。

森の中では薙刀を振り回すわけにはいかない。

太刀では防ぎにくい踝(くるぶし)を確実に狙ってくる。

地面を蹴り、斜め前に跳んだ。

俺の足があった場所を、三日月型の刃が空しく刈りとる。

そのまま一気に間合いをつめる。

長柄物と戦うなら、勝法はひとつ。

相手の懐(ふところ)に入ってしまえば、穂先にある刃は無力だ。

不意をつかれた僧兵の眼が、驚愕で歪む。

刀の峰で、その胴を薙ぎ払った。

…ざすっ。

【僧兵】「ぐふぅ…」

巨体ががっくりと膝をつき、地面に崩れ落ちた。

残った僧兵たちの間に、ざわりと風が起こる。

【僧兵】「存外腕が立つぞ」

【僧兵】「小癪(こしゃく)な田舎侍がっ」

【僧兵】「こやつ、吾妻者ではないぞ」

俺の身なりを食い入るように見つめ、言った。

【僧兵】「うぬは何奴ぞ? 名を名乗れ」

あいにくだが、こっちは育ちが悪い。

何も褒美が出ないのでは、名を教えてもつまらない。

【柳也】「名乗るほどのものじゃない」

【僧兵】「何だと?」

【柳也】「参るっ」

相手が鼻じろんだ一瞬の隙に、次の行動を起こした。

狙いは敵の前衛、二人目の薙刀使いだ。

【僧兵】「…でえいっ!」

一閃目の突きを、横に跳ね飛びかわす。

そのまま回り込むように死角を狙う。

敵もついてこようとするが、立木が邪魔して薙刀を回せない。

だが、今度の敵はもっと利口だった。

俺が間合いに入った瞬間、ためらうことなく薙刀を捨てた。

そのまま腰の太刀を探る。

抜く手も早い。

俺は刀を振るわなかった。

勢いにまかせ、敵に肩口からぶつかっていく。

次の瞬間。

【僧兵】「ううっ…」

俺の太刀の柄が、僧兵の鳩尾(みぞおち)にめり込んでいた。

苦悶の表情を浮かべ、敵が地面にうずくまる。

残りは一人。

太刀を大げさに振りかぶったまま、おろおろと辺りを見回している。

一呼吸のうちに仲間がやられたのが、まだ信じられないらしい。

【僧兵】「うっ…」

【僧兵】「うあああああぁっ…」

やぶれかぶれの足取りで、真正面から斬りかかってきた。

刀で受ける必要もなかった。

相手の太刀を体ごと受け流す。

すれちがいざま、首筋を峰で打ちつけた。

【柳也】「…せいっ」

最後の僧兵は、悲鳴をあげる間もなく昏倒した。

…ぶんっ。

いつもの癖で太刀をふるい、ついてもいない血糊(ちのり)を払い落とした。

そして太刀を鞘におさめた。

【柳也】「ふう…」

溜めていた息を吐き出す。

三人の僧兵たちは、毛皮を取られた熊のように地面にうずくまっている。

しばらくまともには動けないだろう。

【柳也】「こりゃ、できすぎだな」

僧兵たちを一瞥(いちべつ)し、俺はその場を離れた。

神奈たちが向かったはずの闇を駈ける。

足下の草が泥のようにまとわりつき、ひどく走りにくい。

裏葉は『ここは結界の只中だ』と言った。

空間そのものを封じこめる呪術があると聞く。

法師や陰陽師(おんみょうじ)があやつる力だ。

靄はぶ厚くたちこめ、行く手が見通せない。

どこに向かって走っているのか、まったくわからない。

熱にうかされた時に見る、悪夢のようだった。

やがて。

まったくだしぬけに、人の気配を感じた。

背後からだった。

太刀を抜きざま、体ごと振り向く。

靄が切れ、視界に森が戻った。

だれもいない。

いや、違う。

神奈と裏葉の後ろ姿が、寄り添うように立っている。

二人の僧兵が、その行く手をふさいでいた。

【僧兵】「そこな女、高野は女人禁制ぞ」

無骨な手が伸び、神奈の袖をつかもうとする。

【神奈】「余に触れるでない、無礼者っ!」

澄みわたった声が、一瞬その場を圧する。

僧兵がぎくりと腕をとめた。

【僧兵】「手荒をするでない」

もう一人の僧兵が、威厳のある声で仲間を制した。

目前の少女の顔を凝視する。

【僧兵】「そっ、そなたはまさか…」

【裏葉】「神奈さま、お早くっ!」

短刀を目前でかまえたまま、裏葉が神奈を背でかばう。

ためらっている暇はなかった。

【柳也】「神奈備命が随身柳也、参るっ!」

太刀を上段に振りかぶり、大声で叫んだ。

敵の注意をこちらに引きつけるためだ。

そのまま地を蹴り、敵中に飛びこむ。

二人の僧兵が、てんでに剣を抜いた。

柄尻に独特の装飾がほどこされた、直刃(すぐは)の剣だった。

【柳也】「せあっ!」

気合いと共に、一撃目を放つ。

…きんっ。

刃金(はがね)と刃金が交わり、青白い火花が散った。

【僧兵】「…ふんっ」

もう一人の僧兵が、袈裟懸けに斬りつけてきた。

大きく上体を逸らしてかわす。

すかさず最初の僧兵が間合いに入ってくる。

…きん…かっ…きん!

【柳也】「くっ…」

鍔迫合(つばぜりあい)では向こうに分がある。

鎬(しのぎ)を滑らし、刀身を引き剥がした。

【僧兵】「でえいっ」

間髪を入れずに、真横からの突きが迫る。

後ろに跳ね退き、これをかわした。

【僧兵】「…できるな、ぬし」

頭巾の下からうなり声が聞こえた。

俺も呼吸を整え、太刀を握りなおした。

…手強い。

額を汗が伝うのがわかった。

背後にはまだ神奈たちの気配があった。

【柳也】「うしろを見るな、走れっ」

僧兵たちに相対したまま叫ぶ。

ためらった足音が動き、俺から遠ざかっていく。

【僧兵】「ぬしは神奈備命を追え。結界を越えられたら終(しま)いぞ」

年長らしい僧兵が、もう一人に伝えた。

【柳也】「させるかあっ!」

去りかけた僧兵に、斜め後ろから斬りかかる。

【僧兵】「邪魔立てするなっ」

振り向きざまの突きを、太刀で受け払った。

二対一での激しい切り結びが続く。

さっきの僧兵たちとは、明らかに格がちがう。

このままでは勝算は薄い。

となれば…

構えを上段に移した。

ざっ、ざっ、ざっ…

にじり足のまま、真横に動く。

二人の僧兵も、俺に合わせて位置を変える。

俺たちの頭上で、木々の枝がざわめく。

狙いの位置に達した時。

一気に勝負に出た。

【柳也】「であっ…」

空気ごと両断するように、力任せに太刀を振るう。

だが、俺の刃は何も捉えず、切っ先が土を引っ掻いた。

次の瞬間、頭が無防備になった。

この隙を敵が見逃すはずがなかった。

【僧兵】「覚悟おっ」

直刃の剣が上段に振りかぶられた。

…がすっ。

鈍い音が、俺の頭上ではじけた。

僧兵は動きを止めていた。

必殺のはずの剣は、頭上に張り出した太い枝に食いこんでいた。

…だしゅっ。

俺の太刀の峰が、がら空きになった僧兵の胴を横なぎにした。

【僧兵】「ぬかった、わ…」

呪文のようにうめき、片膝をつく。

肩からもんどり打って、地面に巨体を沈めた。

主を失った直刃剣だけが、枝にぶら下がっていた。

残ったのは、年長の僧兵だった。

俺の長太刀と、相手の直刃剣。

それぞれの切っ先を二尺ほど離し、静かに正対する。

油断なくかまえたまま、僧兵は低くつぶやくように言った。

【僧兵】「うぬらは、なにをたくらんでおる」

【僧兵】「八百比丘尼には会わせまいぞ」

…やおびくに?

思う間もなく、間合いを詰めてきた。

体躯に似合わない、氷を滑るような踏みこみ。

小細工が通用する相手ではない。

ただ、速い方が勝つ。

【僧兵】「ぬんっ…」

【柳也】「せあっ…」

次の瞬間。

心臓を狙った直刃剣は、俺の左袖を突き通していた。

対する俺の長太刀は、敵の脇腹を捉えていた。

剣技に優劣はなかった。

最初から急所を狙わなかった分、俺の方が速かった。

それだけのことだ。

【僧兵】「ごふっ…」

にごった咳とともに、僧兵が地面に横たわった。

【僧兵】「ごふっごふっ…」

苦悶の表情を浮かべながら、体を返して仰向けになる。

肋骨の下とはいえ、臓腑(ぞうふ)をまともに打ちつけられたのだ。

息をするのもつらいはずだ。

なのに、僧兵は俺に訊いた。

【僧兵】「…なにゆえに、情(なさけ)をかけた?」

真剣な声音に、驚愕がこめられていた。

自分が斬られていないことが、よほど不思議だったらしい。

【柳也】「情をかけたわけじゃない」

俺はそう答えた。

僧兵の眼が、かすかに笑ったように見えた。

頭巾の向こうの唇が、何かを唱える。

読経とも呪詛ともつかない、虻(あぶ)の羽音めいたうなり声。

【僧兵】「闇を見るぞ」

【柳也】「何だと…?」

訊ねかけた時。

…ずきん。

鋭い頭痛に襲われた。

頭の奥の、いちばん深いところ。

汚泥のように、何かが浮かびあがってくる。

これは…

そうだ。

今と同じ光景を、俺は見たことがある。

真っ青に晴れた空。

蝉の声だけが響く山道。

童子の頃の俺。

踏みにじられた祈り。

血だまりの中に転がる、老僧の屍。

泣きじゃくる俺。

血塗られた刃。

殺されるはずだった俺。

殺せるのに、殺さなかった。

そして、ひとりになった俺…

突然の殺気が、俺を現実に引き戻した。

もう一人の僧兵が、枝に食いこんだままの剣を抜き取るところだった。

そのまま打ちかかってくる。

【僧兵】「食らえっ…」

だが、僧兵の足元はまだおぼつかない。

一撃目をなんなく受け流した。

返す刀で敵の眉間(みけん)を狙った。

だが、その瞬間。

自分が真剣を振ったことに気づいた。

そのまま太刀を振り抜けば、僧兵は即死する。

『余を主とするかぎり、一切の殺生を禁ずる』

【柳也】「くっ…」

両腕をねじ曲げるようにして、無理に太刀筋を変えた。

馬鹿げた行動だった。

一瞬の気の迷い。

それが命取りになることを、俺は知りぬいていたはずなのに。

太刀の刃は僧兵の肩口を撫で、そのまま空を斬った。

ひきかえに、俺の体勢は大きく崩れた。

自分から敵に背中をさらすことになった。

【僧兵】「ふんっ…」

絹と肉が裂ける、嫌な音がした。

灼(や)けるような衝撃が、背を斜めに走り抜けた。

それで相手との間合いがわかった。

振り向きざまに太刀を振るう。

【柳也】「…せりゃあぁぁあっ!」

渾身の気合いとともに、僧兵の肩口に刀背を叩きこんだ。

【僧兵】「ぐおあっ…」

僧兵は白目を剥き、その場に昏倒した。

だが、殺してはいないはずだ。

不殺の誓い。

俺と神奈が交わした、破ることのできない誓い。

背中が焼けるように熱い。

立っていられなくなった。

神奈たちを追わなければ。

必死でそう思っても、意識が遠のいていく…

………。

聞き慣れた声がした。

【神奈】「裏葉、こちらだっ! はようせいっ」

【裏葉】「…柳也さま、しっかりなさいませっ」

…また戻ってきたのか、こいつらは。

俺の言うことはちゃんと守れと、あれほど言ったのに…

【神奈】「柳也どの、柳也どのっ! りゅう…」

【裏葉】「神奈さま、邪魔でございますっ」

絹を破っている音がする。

俺の止血をするつもりなのだろう。

目を開けた。

神奈の顔が真正面にあった。

【柳也】「…だれも、殺さなかったぞ」

【神奈】「柳也どの、無事かっ」

【柳也】「見た目ほどの怪我じゃない」

【柳也】「心配、するな…」

自分の言葉とはうらはらに、血の気が引いていくのがわかる。

そうだ、こんなことをしている場合ではないのだ。

【柳也】「手当ては、あとでいい…」

【柳也】「逃げろ。とどめを刺してあるわけじゃ、ないんだ…」

二人の僧兵が、すぐ向こうの地面に転がっている。

今にもむくりと動き出すような気がした。

【裏葉】「神奈さま、お手をお貸しくださいっ」

裏葉が着物の袖をまくった。

神奈もそれにならう。

二人の指が、俺の狩衣の襟にかけらた。

女手ふたつで、ずるずると引きずられていく俺。

かなり情けないぞ…

【柳也】「馬鹿、俺はあとでいいって…」

年長の僧兵が、必死に体を起こそうとしているのが見えた。

【僧兵】「…待てっ、そこより先には行かせぬっ」

俺に向かって、何かを必死に呼びかけている。

【僧兵】「八百比丘尼を解き放つ気か?…」

また『やおびくに』か。

何のことだよ、それは。

【僧兵】「ぬしらも、無事ではすまぬのだぞ…」

とっくに無事ではすんでないさ…

そこで、気が遠くなった。

羽音が聞こえた。

輝く翼を広げた鳥。

ふわりと舞いあがる。

俺を残して。

決してたどりつけない所。

はるかな高みへ。

俺は後を追おうとして…

そして、夢だと気づいた。

ゆっくりと目を開いた。

深い森の中だった。

さやさやと鳴る梢。

たなびく霞(かすみ)に、陽光がけむっている。

辺りは静まりかえっている。

清浄な空気の芯に、かすかに水の匂いがする。

ここは…

極楽浄土、というやつだろうか?

人の気配はない。

【裏葉】「お目覚めでございますか」

【柳也】「………」

人じゃないのか、こいつは。

【柳也】「おはよう」

やわらかな草の上に、俺は体を横にして寝かされていた。

じくじくする痛みが背中を這いまわっていた。

そうか。

僧兵に斬られたんだった。

裏葉と神奈に、ここまで引きずられて…

【柳也】「…血の痕(あと)は消したかっ?」

【裏葉】「はあ」

きょとんとした顔で、こちらを見返す。

【柳也】「追っ手に血をたどられたら…」

上体を起こそうとしたとたん、激痛が走った。

【柳也】「あつっ」

【裏葉】「ご無理をなさらずに」

【裏葉】「まだ傷が閉じたばかりです」

【柳也】「しかし…」

【裏葉】「ここなら心配はございません」

【裏葉】「すでに結界を越えております」

昨夜の斬り合いが、断片として頭に戻ってきた。

『ぬしは神奈備命を追え。結界を越えられたら終(しま)いぞ』

僧兵さえ、ここには入れないということか。

あらためて自分のなりを見てみた。

狩衣は脱がされていた。

上体に真っ白な布が幾重にも巻かれている。

慎重に体を起こした。

首を巡らすと、木々の向こうになだらかな山陵があった。

山頂の近くで、なにかが光ったように見えた。

【裏葉】「神奈さまの母君は、あそこにおられます」

俺の視線を追って、裏葉が静かに言った。

【柳也】「なぜそう思う?」

【裏葉】「勘でございます」

しれっとした顔で言う。

【柳也】「そうか」

【柳也】「裏葉の勘はいつもたしかだからな」

それ以上深く尋ねるのはやめておいた。

【柳也】「神奈は?」

【裏葉】「泉で水を汲んでおられます」

【柳也】「泉?」

【裏葉】「あちらにございます」

地面を探ると、右側に俺の太刀があった。

鞘ごと杖にして、立ちあがる。

裏葉が手を貸そうとしたが、手を振って断った。

【柳也】「大したことはないさ」

痛みに歪みそうになる顔を、あわてて笑顔にする。

指、手首、腕、脚、どこも普通に動かせる。

背骨の髄(ずい)に刃は受けていない。

傷口さえ開かなければ、どうにか歩けそうだ。

【裏葉】「柳也さま、泉で傷口を清めた方がよろしいかと」

【柳也】「手伝ってくれるか? 手取り足取りって感じで」

【裏葉】「ご自分でどうぞ」

つれない返事が返ってきた。

【柳也】「これでも一応、怪我人なんだがな」

【裏葉】「わたくしは衣(ころも)をつくろっておきますので」

見ると、裏葉は俺の狩衣を膝の上に広げていた。

背中と袖の布地がばっくりと裂けてしまっていた。

【裏葉】「上等な仕立てが、こんなになってしまって…」

【柳也】「衣にはやさしいんだな」

【裏葉】「衣の破れ目は、放っておいてもふさがりませんので」

【柳也】「………」

泉はすぐ近くにあった。

木々に隠された鏡のように、水面が空を映していた。

そのほとりに、神奈は立っていた。

【神奈】「あっ…」

俺に駈け寄ろうとして、ためらったのがわかった。

【柳也】「元気そうだな」

俺が近づくと、小声で訊いてきた。

【神奈】「もう歩いてよいのか?」

【柳也】「傷口を洗いに来ただけだ」

【神奈】「余でよければ、手伝うぞ」

【柳也】「いや、一人でできる」

袴のまま、泉に歩み入る。

水は痛いほどに冷たく、膝までの深さがあった。

凍み入るような感触が、起き抜けの頭をひきしめてくれる。

【柳也】「裏葉のところにもどれ。傷口を洗ってる間は太刀が使えないから」

俺がそう言っても、神奈は岸辺を離れようとしなかった。

【神奈】「殿方も、人前で肌をさらすのは恥ずかしいものなのか?」

【柳也】「そりゃ恥ずかしいさ」

恥ずかしいわけではなく、神奈には傷口を見せたくなかった。

背中に刻まれた刀傷は他にもいくつかある。

すべて戦場から逃げ出す時に受けたものだ。

…やっぱり俺も恥ずかしいだけか。

【神奈】「そうなのか」

【神奈】「余と同じよの…」

うつむき加減につぶやいてから、ふっと顔を上げた。

【神奈】「柳也どの」

【柳也】「なんだよ、あらたまって」

【神奈】「余は柳也どのに『だれも殺めるな』と命じたが」

【神奈】「今思えば、あれは余の…」

【柳也】「それ以上は言うな」

『不殺の誓いは、余の過ちであった』

その言葉だけは、言わせたくなかった。

『人を殺してもかまわない』なんて、この少女にだけは絶対に言わせたくなかった。

たとえそのために、俺が傷を重ねることになっても。

【柳也】「昨夜はちょっと油断しただけだ。次からはちゃんと…」

【神奈】「強がりを申すな!」

叫ぶと同時に、神奈はなぜか瞳を見開いた。

自分の語勢の激しさに、自分で驚いているように見えた。

【神奈】「いや、すまぬ」

【神奈】「ただな。余は…」

【神奈】「…社殿を出た晩のことを覚えておるか?」

【柳也】「ああ」

【神奈】「あの折、先に言いつけを破ったのは余の方であった」

【柳也】「そのことはもういいさ」

【神奈】「あの時は、柳也どのが殺されてしまうと思うたのだ」

【神奈】「だがな、今は…」

【神奈】「…あの時とは、ちがう心持ちなのだ」

【神奈】「これは主として申しておるのではないぞ」

【神奈】「余は…」

【神奈】「………」

【神奈】「なんと申せばいいのか、よくわからん」

【神奈】「ただな、ただ…」

【神奈】「柳也どのに死なれたら、余は…」

【神奈】「余は…」

そこから先に、言葉は進めない。

水の中に立っていると、あどけない顔がちょうど正面にある。

波紋のように揺らぐ瞳に、俺は笑いかけてやった。

【柳也】「俺が死なないようにするなんて、簡単さ」

【柳也】「神奈が俺に『死ぬな』と命じればいい」

【柳也】「俺は忠臣だからな」

【柳也】「主の言いつけは何でも守るぞ」

【神奈】「では、余はおぬしに命ずる…」

いつもの調子で言いかけ、途中で止めた。

何かを考える。

そして、ゆっくりとこう言いかえた。

【神奈】「これは命ではなく、余の願いである」

【神奈】「柳也どの」

【神奈】「死なないでほしい」

【柳也】「ああ」

【柳也】「約束する」

主従の誓いではない。

神奈の心からの願い。

俺と神奈が交わした、はじめての約束。

これは…なんだろう?

ずっと昔に忘れたと思っていた、温かく包まれるような感覚。

それは俺の中で、常に闇と隣り合ってきた…。

と、神奈がぼそっと言った。

【神奈】「なにか、話せ」

【柳也】「はっ?」

【神奈】「間が持たぬではないか…」

うつむき加減のまま、怒ったように言う。

【柳也】「そうか、なら…」

【柳也】「つまらない話だけど、聞いてくれるか?」

【神奈】「なんなりと申せ」

いつもの笑顔に導かれて、俺は話しはじめた。

【柳也】「俺は親の顔を知らない」

【神奈】「…なにゆえに?」

【柳也】「たぶん、捨てられたんだろうな」

【柳也】「道端で泣いてたところを、雲水に拾われたんだ」

言葉にしてみると、それはひどく色褪せて感じられた。

神奈はしばらく無言だったが、やがてそっと訊いてきた。

【神奈】「雲水とはなんだ?」

【柳也】「旅の坊主のことさ」

【柳也】「行脚僧(あんぎゃそう)って言えば聞こえはいいけど、乞食みたいなもんだ」

【柳也】「二人きりで、色々な土地を旅した…」

育ての親、と言えるほどの存在ではない。

ただ厳しい人だった、としか覚えていない。

どうして俺を助けてくれたのかもわからない。

経を唱える時以外、無駄口はいっさい開かなかった。

法名(ほうみょう)さえ、最期まで教えてもらえなかった。

【柳也】「俺が五つかそこらの夏だ」

【柳也】「峠道で山賊に襲われてさ」

【柳也】「雲水は一太刀で殺された」

神奈が瞳を見開いた。

激しい風が吹き渡り、泉の水面を乱していった。

【柳也】「その雲水は、斬られたあとも祈ってたよ」

【柳也】「『自分を殺す者が浄土に行けますように』ってさ」

【柳也】「それでいて自分は、血まみれになって死んだ」

【柳也】「『刀の錆にするほどもない』って、俺は殺されなかったけどな…」

そして俺は、また道端に見捨てられた。

殺される価値さえない、ちっぽけな子供だった。

あれからずっと、俺はひとりだった。

生き抜くためならなんでもやった。

太刀を盗み、戦に加わった。

人も殺した。

祈りが神に届くなんて、考えたこともなかった。

目の前にいる、この少女に出会うまでは。

神奈はただすんなりとたたずみ、俺のことを見つめていた。

そして、こう言った。

【神奈】「その山賊はさぞ悔やんだであろうな」

【柳也】「へっ?」

【神奈】「立派な高僧を殺めてしまったのだから、悔やむのが当然であろ?」

【柳也】「立派な高僧だったかは、かなり怪しいけどな」

【神奈】「なにを怪しむことがある?」

【神奈】「雲水どのの祈りが通じたからこそ、山賊は柳也どのを殺さなかったのではないか」

【柳也】「いや…」

説明しようとして、思わずたじろいだ。

神奈の瞳が深い。

つむぎだす言葉に、一片の疑いも持っていない者の瞳。

【柳也】「そうか…」

思いもかけない感情が、闇の奧を照らすのを感じた。

そうだ。

間違っていたのは、俺の方かもしれない。

あの時俺は、たしかに救われていたのかもしれない、と…

【柳也】「もっと早く、それに気づいていればな…」

知らず、言葉がこぼれ落ちた。

【柳也】「俺はきっと、別の道を歩いてたのに」

【神奈】「それは困るぞ」

【柳也】「なんで?」

【神奈】「それでは余は、柳也どのと逢えぬではないか」

【柳也】「そうだったな」

【柳也】「俺もな、神奈に逢えてよかったと思ってるよ」

【神奈】「柳也どの…」

言葉が途切れる。

そのまま黙りこむ。

何かを決意したように。

きゃしゃな身体が、俺の方に近づいてくる。

その時はじめて、神奈が素足なのに気づいた。

ほのかに紅く染まった頬。

心なしか、瞳も潤んでいる。

【神奈】「柳也どの、その、な」

【神奈】「その…」

【柳也】「なんだよ?」

【神奈】「この続きはどうするのか、ようわからんのだ」

【神奈】「だからな…」

【神奈】「あとの手筈(てはず)は、柳也どのにまかせるぞ」

【柳也】「手筈って…」

さらさらと、衣が滑る音がした。

俺の目の前で、神奈は帯をほどき、衣の肩をはだけた。

そのまま、俺に近づいてくる。

爪先が水面に触れる寸前。

【神奈】「あっ…」

裾を踏んでしまったらしい。

ぺたんとその場に座りこんだ。

【神奈】「恥ずかしいのだ」

【神奈】「はよう、せい」

きゅっと唇をむすぶ。

上目づかいに、俺の顔を覗きこむ。

きめ細やかな肌が、外気にさらされて震える。

育ちきっていない、ふたつの膨らみ。

背中にあるはずの羽は、まだ隠されている。

しかし、清らかな美しさは天の使いそのものだった。

手を伸ばそうとすると、神奈はびくっと身をそらした。

【神奈】「触れる…のか?」

【柳也】「さわらなきゃ何もできないぞ」

俺が言うと、観念したように正面を向く。

その仕草が、むしゃぶりつきたくなるほどに可愛らしい。

据え膳食わぬは男の恥、というやつだ。

だが、しかし…。

【柳也】「これから俺がどういうことをするか、わかってるか?」

念のために訊いてみた。

【神奈】「ばっ、馬鹿にするでないぞ」

【神奈】「万事こころえておるわ」

…全然こころえてないと見た。

【柳也】「とりあえず、衣は全部ひっぺがして素っ裸にするぞ?」

【神奈】「しっ、仕方あるまいの」

【柳也】「撫でたり揉んだりしゃぶったりするぞ?」

【神奈】「くすぐったいのか?」

【柳也】「まあ、そうとも言うな」

【神奈】「多少のことは我慢しようぞ」

【柳也】「…我慢されてもそれはそれで嫌なもんだが」

【神奈】「でっ、ではどうすればよいのだ?」

あられもない姿と途方に暮れた顔が、まったく噛み合っていない。

【柳也】「どうすればって言われてもなあ…」

【柳也】「…断っておくが、痛いぞ」

【神奈】「なんと、痛いのかっ?」

【柳也】「そりゃまあ、最初はな」

【神奈】「むぅ…」

何やら真剣に考えこんだ後、こう訊いてきた。

【神奈】「…『天にも昇る心地』と聞いたのだが、まことではないのか?」

【柳也】「そりゃ、その道の達人になればな」

【神奈】「やはり修練が必要なのか…」

【神奈】「なにやら話がうますぎると思うたのだ」

それはこっちの台詞だっての。

【神奈】「して、どのぐらい習えば心地よくなるものなのだ?」

男にそれを聞いてどうするよ?

考えてみれば、色恋にかけては神奈は呆れるほどに奥手かつ無知だ。

自分から男を誘えるはずがないのだ。

となれば。

入れ知恵をした達人がいるに決まっている。

【柳也】「『天にも昇る心地』ってのは、だれに聞いたんだ?」

【神奈】「むろん、裏葉にだぞ」

あっさり黒幕の名前を吐いたな。

【柳也】「どう聞いたか、全部話してみろよ」

【神奈】「うむ…」

【神奈】「実はな、昨夜、裏葉に話したのだ」

【神奈】「もしも柳也どのが死ぬようなことがあれば、余も生きてはゆけまいぞ、と」

【柳也】「………」

【神奈】「むろん、護衛がいなくなるからではないぞ」

【神奈】「その、余にとって、柳也どのというのは…」

【神奈】「………」

【柳也】「とにかく、俺の身を案じてくれていたわけだな」

【神奈】「うむ」

【神奈】「余が打ち明けると、裏葉はこう申した」

【神奈】「身分や立場を忘れ、柳也どのに素直な心持ちを告げてみろと」

【柳也】「そこまではまともな忠告だな」

【神奈】「なおその際、決して『うつけ』とか『痴れ者』とは呼んではならんと」

【柳也】「なにを今さらって感じだけどな」

【神奈】「首尾よくゆけば、柳也どのは昔のことを語り出すから、だまって聞くようにと」

【柳也】「…なんでわかったんだよ?」

【神奈】「『殿方というのは、好いた女人には必ず昔語りをするものでございます』と申しておったぞ」

【柳也】「………」

完璧に読まれているだけに、ものすごく悔しい。

【神奈】「柳也どのの話がおわったら、おもむろに衣の前をはだける」

【神奈】「この時、胸乳がもろには見えぬぐらいにするのが肝要だとか」

こまかな演技指導までつけてるし。

【神奈】「あとは柳也どのにまかせれば万事うまくゆく、とのことだったが…」

【神奈】「どこか、まちがっておったか?」

裏葉に訊いた時点で、すでに致命的にまちがっている。

【神奈】「とすると…」

【神奈】「柳也どのは男色が好みであったか」

【柳也】「ちょっと待てっ!」

【神奈】「ちがうのか? では…」

【神奈】「おお、そうだ」

何かを思い出したのか、ぽんと手を叩く。

【神奈】「女好きでも益体(やくたい)なしな殿方もまれにあると…」

【柳也】「人聞きの悪いことを言うなあっ!」

この分では、ほかにもなにを吹きこんだか知れたものではない。

【柳也】「まったく、あの女狐め…」

裏葉なら尻尾の二、三本ぐらい生えていてもおかしくない。

【神奈】「やはり衣をはだけすぎたか…」

【柳也】「…こいつはまだぶつぶつ言ってるし」

【柳也】「………」

【柳也】「よし、わかったっ」

【柳也】「俺も男だってところを見せつけてやるから覚悟しろ」

森中に響きわたるような大声で宣言する。

【神奈】「柳也どの、なにやら目つきがおかしいぞ…」

【柳也】「誘ってきたのはおまえだぞ、おとなしく俺の毒牙にかかれ」

【神奈】「柳也どのには毒があるのか?」

【柳也】「男にはみんなあるんだ」

【神奈】「は、初耳だぞ」

【柳也】「実はな、他にもおまえの知らないものが色々とあったりするんだ」

【神奈】「なっ、なんと…」

【柳也】「手取り足取り胸取り腰取り、たっぷり教えてやるからな」

か細い肩にがっちりと両手をかける。

【神奈】「こら、やっ、やめんかっ…」

顔を真っ赤にし、激しく身をよじる。

だが、男が本気になれば振りほどけるはずがない。

【神奈】「やめよっ…やめっ…」

【柳也】「やめろと言われてやめる男はいないぞっ」

俺はそこで我慢できなくなり…

【柳也】「…裏葉っ、どうせまたその辺に隠れてるんだろ、出てこいっ!」

辺りを見回しながら、声を張りあげた。

【裏葉】「お楽しみのところ、失礼いたします」

【柳也】「楽しんでたのはおまえだけだっ!」

【裏葉】「神奈さま、ご無事でございますか?」

放心した神奈に走り寄り、てきぱきと衣を着せる。

【神奈】「…ようわからんが、うまくいかなんだぞ」

【裏葉】「あらあらまあまあ。それは残念でございましたね」

【柳也】「白々しすぎるぞ」

俺のつぶやきを無視して、裏葉は森の奧を手で示しながら言った。

【裏葉】「あちらに御膳の支度がととのってございます」

【神奈】「そうか。大儀であった」

そそくさと歩きだす神奈。

…あっさり飯に釣られていくわけな?

【神奈】「柳也どの」

【柳也】「なんだ?」

【神奈】「その…」

まだ乱れたままの髪。

さっきの余韻が残っているような、ほんのりと上気した頬。

【神奈】「…余は、柳也どのを怒らせてしもうたのか?」

【柳也】「別に怒ってなんかないさ」

【神奈】「ならよいのだが…」

ほっとしたように頷き、手のひらを胸に添える。

その下にある小振りな膨らみを、どうしても思い出してしまう。

勢いにまかせてしまわなかったことを、すこしばかり後悔した。

【裏葉】「ささ、神奈さまお早く」

【神奈】「うむ」

神奈の背を押して去りかけた裏葉に、今度は俺が声をかけた。

【柳也】「…裏葉」

【裏葉】「なんでございましょう?」

【柳也】「俺が絶対に手を出さないって踏んでたろ」

【裏葉】「分の悪い賭けではございましたが」

【柳也】「………」

二の句のつげない俺と、いつも通りの裏葉。

【柳也】「…俺ほど人畜無害な男はないぞ」

【裏葉】「益体なしとも申しますわね」

【柳也】「やかましいっての」

俺たちの会話の意味がわからず、神奈はただきょとんとしている。

【裏葉】「それではお先に」

【裏葉】「これから神奈さまに房事をお教えいたしますので」

【柳也】「頼むからやめてくれ」

【神奈】「房事とはなんだ?」

【柳也】「…おまえも訊くんじゃないっ」

太陽は既に真南を過ぎている。

昼下がりの森に、以前ほどの熱気は感じられない。

吹き抜ける風も、秋の気配をたしかに含んでいる。

寒蝉(つくつくぼうし)が鳴いている。

自分の居所を、空に伝えるように。

【裏葉】「夏も終わりでございますね」

【柳也】「そうだな…」

梢を通して、なだらかな山嶺が霞んでいる。

日が落ちたら、三人であの峰に向かう。

神奈は眠っている。

裏葉の膝で、すうすうと寝息を立てている。

裏葉はたおやかに微笑んでいる。

神奈の髪を指で梳きながら、ささやくように言った。

【裏葉】「昨夜は一睡もされませんでしたから…」

【柳也】「そうなのか?」

【裏葉】「柳也さまのことが、よほど気がかりだったのでしょう」

【柳也】「そうか…」

神奈の寝顔を見下ろし、言うでもなく言った。

【柳也】「こうして見れば、なかなかの美姫(びき)なんだけどな」

とたんに裏葉ににらまれた。

【裏葉】「もとより神奈さまは、とびきりの美姫でございます」

【裏葉】「つまらぬ虫が寄る前に、色恋の手管(てくだ)をお仕込みしなければ…」

【柳也】「だからって俺を練習台に使うことはないだろ」

【裏葉】「なんのことでございましょう?」

【柳也】「真顔でとぼけるなよ」

神奈はなにも知らず、すうすうと寝息を立てている。

【柳也】「こいつはまだ女童(めわらわ)さ」

【柳也】「人形遊びやお手玉さえ、満足にしたことがなかったんだからな」

【神奈】「う…ん…」

寝返りをうとうとしたらしい。神奈が身じろぎした。

裏葉は神奈の頭にそっと手を添え、さりげなく膝に乗せなおした。

小さな唇が、幸せそうに動いた。

【神奈】「…ははうえ…」

裏葉はただ、やさしく髪を撫で続けていた。

再会の時は近づいていた。

そして、別れの時も。

日が落ちて、すぐに出立した。

雲がある様子もないのに、月は現れなかった。

それでいて、森の中はほの明るく、山道も苦にはならなかった。

神奈の足は早かった。

再会に気が急くのだろう。

傷を負った俺の方が、遅れがちになる始末だった。

そして…

俺たちは山頂に着いた。

木々の中央に、なにか小山のようなものがあった。

こけむした石が、人の背丈の倍ほどまで高々と積まれている。

かなり古いもののようだった。

【柳也】「石塚?」

…にしては大きすぎる。

それこそ、中に部屋があってもおかしくない。

【裏葉】「柳也さま、こちらを」

ひときわ大きな木が、石塚の脇にある森に立っていた。

幹の中央に、顔ほどの大きさの丸いものが結わえつけてある。

【柳也】「…鏡?」

裏葉の方を振り向き、尋ねる。

【柳也】「なんだと思う?」

【裏葉】「しかとはわかりませんが、いずれ呪法のたぐいでしょう」

【神奈】「こちらから入れるぞっ」

石塚の側方から、神奈の声がした。

【柳也】「待てっ」

すんでのところで襟首をつかまえた。

神奈が飛びこもうとしたのは、人ひとりがどうにか通れるほどの穴だった。

氷室のような冷気が、黒々とした闇から流れ出してくる。

【柳也】「まず、俺が様子を…」

言いかけたとたんに、きびしい声が飛んだ。